第9話 鎖の重み
初めてのサングラスは、少し大人になった気がした。隣を歩く本物の大人は、壁に設置された案内版を見て、エレベーターに乗ろうと袖を引っ張る。
「先生、もしかして眠い?」
「うん。少しね。個室のあるカフェもあるから、少し休んでいい?」
本当に眠いようだ。小さな口が大きく開く。目にはうっすら涙が溜まっている。
「もちろんです。無理に付き合うこともなかったのに」
「プラネタリウムに来たかったし。一ノ瀬君に、この前のお礼も言いたかった。学校だと他の生徒もいるから、言いづらくて」
日曜日なだけあって、カフェはそれなりに人も多い。同じ年代くらいの子がいて、俺は先生を後ろに隠した。教師は見覚えがなくても、生徒は知っているなんてざらにある話だ。先生の手が、俺の肘を掴む。もっと掴みやすい場所があるだろうとつっこみはおいて、くすぐったい。
「一人用の個室であれば、すぐにご案内ができるのですが……」
「一人用? ふたりでも入れますか?」
「入れますが、狭いです」
星宮先生を見ると、大きな目を開いたまま俺を見上げていた。その顔はどっちなんだ。
「一人用で」
「かしこまりました」
肘に触れる手に力がこもる。嫌だとも言わない。それならば、俺は都合よく受け取ろう。
個室は硬めのソファーに安っぽいテーブルが置かれているだけだった。個室といえば聞こえはいい。
飲み物はコーラと紅茶をタッチパネルで注文していると、星宮先生はついにうとうとし始めてしまった。運転中でなくて良かった。狭い空間の中、少し距離を縮めてみると、二の腕に頭を乗せてきた。
飲み物が到着しても、星宮先生はぴくりとも動かない。規則的な揺れに、どうやら寝入ってしまっている。
「…………先生」
呼んでも起きる気配はない。利き腕は使えるので、右手でグラスを手に取った。
恋人でも友人でも先生でもない。小動物に懐かれたような感覚だ。可愛くて頭をわしわししたくなる。先生は何かに似ている。
がくんと落ちるのは、俺も授業中に何度か経験のある痙攣現象だ。先生は辺りを見回し、目の前に置かれた紅茶を見てははたと気づく。
「ご、ごめ……」
「謝ってばっかりですね。別にいいですよ。忙しかったんですか」
「うん……報告書とか、いろいろ」
いろいろには、古賀の話も含まれているのだろう。責任は先生にのしかかるのは仕方がなくとも、星宮先生は被害者だ。何一つ悪くない。
俺は、月並みな言葉しか浮かばない。
「俺は、先生が担任で良かったって思ってますよ。でも、教師だけが仕事じゃないし、先生のやりたいことがあれば、俺は応援します」
「本当? ありがと」
眠そうだったのに、一気に覚めた。先生の嬉しそうな声は、俺の言葉のどれにかかっているのか分からない。担任で良かったなのか、応援します、なのか。
右耳に開く穴から目を逸らし、そろそろ行こうと促した。冷めた紅茶を飲み干し、覚醒したのか、先生はテンションが上がっている。俺もだ。
エレベーターでさらに上がり、いよいよお楽しみの星空観賞会だ。星宮先生が隣にいる現実が勝り、本も開けないほど手が震えたトラウマは、今は恐ろしくはない。
先生は無料でもらえるパンフレットに夢中になっている。その間に、チケットを二枚差し出した。
「こちらはカップルシートのみになりますが、よろしいですか?」
「カップルシート?」
「こちらです」
三日月型で席がソファーになっている。男ふたりで入れるかと尋ねると、問題ないと返答があった。
チケットは元々薫子さんからもらったもので、本当は親父がここに来るはずだった。なんていうか、親の恋愛をむざむざと見せつけられては、複雑な心境になる。好きに恋愛をすればいいと思うが、親のそういう顔は見たくない。
「一ノ瀬君?」
「先生、行きましょうか」
席のことはあえて言わず、袖を掴んで中に足を踏み入れた。
当たり前だが、真っ暗だ。足元の頼りない明かりだけが命綱みたいなもので、雰囲気がそういう気持ちにさせるのか、先生の手首を掴んだ。先生は何も言わない。振りほどこうともしない。都合良く受け取ろう。
「ここです」
「え、こういう席なの?」
「俺も来るまでは知らなかった」
三つあるシートに、まだ誰も座っていない。他の席とは違う、特等席だ。きっとここに座る人たちは特別な関係で、または互いに特別になりたいと思っている人たち。俺もその内の一人。
「座ろっか」
左右に動く感情など知らず、星宮先生は靴を脱いで左側に腰を下ろした。右側だと、ピアスの穴が見えてしまう。暗くて助かった。できるだけ目にしたくない。
「眠くないですか?」
「わくわくしてる。うそ、ちょっと眠い」
「寝てもいいですよ」
「せっかく来たのに?」
「そしたら……優しく起こします」
「悪戯してもいいよ?」
「…………先生、本当に、そういうことは」
「ふふ」
小悪魔だ。教師の仮面を被っているだけの、小悪魔。
先ほどの仕返しだと、先生は手の甲に自分の手を乗せてきた。生暖かさがリアルで、本来だと隣にいてはならない人がいると、肩が震えた。
「先生?」
もしかしたらだ。もしかしてだけれど。先ほどの星宮先生の言動は、隣にいる俺を別の人間と寝ぼけて思い込んでいたのではないか。例えば、元彼とか。責めたいし聞きたいのに、安心しきった寝顔を見てしまっては、脳内に収めるしかなくなる。
ナレーションが始まっても、星宮先生は眠ったまま起きない。一緒に眺めたかった星たちは宇宙の花だ。満開に咲き、こんなに美しいものに苦手意識があったのか不思議なくらいだ。
「星宮先生……」
肩に乗せられた重みが幸せを運んでくれる。俺も頭に頭を乗せてみる。シャンプーのすっきりした香りがした。
俺たちに降って落ちてくるんじゃないのかのいうくらい、大量の流れ星が舞う。目を閉じて、願う。
「何を…………?」
独り言も、星に呑まれる。
俺は今、何を願おうとした?
先生と仲良くなりたくて、星を知りたくて。
トラウマも克服したくて。
「俺は…………」
星の勉強どころか、鑑賞時間は終わってしまった。ナレーションもほとんど頭に入ってこなかった。
明かりがついても、先生はまだ眠っている。俺は顔を近づけ、額をくっつけた。睫毛が震え、重そうな瞼が開く。
ふにゃっと笑い、一度離れた額がこつんと当たる。痛い。
「行こっか、一ノ瀬君」
ぶつかった額から熱が広がっていく。
誰もいないエレベーターで、先生はぼんやりとポスターを眺めている。いきなり振り返った。
「星の勉強はできた?」
「先生が寝たから、集中できなかった。肩にのせてくるし」
「重かった?」
迷惑じゃない、と心の中で必死に叫んだ。
「や、別に」
「安心したら、眠くなっちゃって」
「安心できない何かがあったんですか?」
「まあね」
「そこまで話しておいて、気になるじゃないですか」
「古賀君のこと」
一階に着き、扉が開いた。あまりにタイミングが良くない。乗り込もうとする男性が足を止め、すみませんと頭を下げた。俺たちも同じ仕草を返してふたりで出た。
車に乗るまでお互いに何も話さなかった。シートベルトをして、やっと安心できる空間となる。
「あいつはいつまで休むんですか?」
「とりあえず、夏休み中まで」
「八月いっぱいか……」
「僕、やっぱり教師に向いていないのかも」
先生は両腕を抱きしめ、細腕をさすった。
「導かなければならない立場なのに、怖い、どうしよう、そんな感情ばかりが浮かんでくる。夜も眠れなくなるくらい。戻ってきたら、僕はまた何かされるのかもしれない」
「それは……あんなことがあったんだ。誰だって怖い。もし俺に同じことが起こっても、学校に来られなくなると思う。俺は……先生が生きていてくれて良かった」
それが一番だ。命が無ければ笑うことも怒ることもできないし、こうしてプラネタリウムにも行けない。墓に入るには早すぎる。
信号が赤になると、先生は助手席の俺を見た。なんて顔をしているんだ。悲しみの涙とは思いたくない。顎に到達した雫は、布地に吸い取られていく。
自分の服で頬に当てると、星宮先生は微かに笑った。
バンジージャンプ並みの勇気だった。やっと言えた。笑顔を俺だけに向けてくれるのなら、もっと早くに伝えれば良かった。
最寄り駅に着いてしまい、名残惜しくも車のドアを開けた。
「今日はありがとうございます」
「一ノ瀬君、君は残酷だね」
止まったはずの涙がまた流れそうだ。どういう意味だろうか。俺が残酷。
「残酷な君にプレゼント」
先生は鞄から小さな紙袋を取り出し、手のひらに乗せてきた。指先が神経の通る場所を撫でていく。
「おやすみ。また学校でね」
駐車場を出る直前、バックライトが数回点滅したが、免許の持っていない俺はどんな意味があるのかさっぱり分からない。
紙袋の中身は、水晶のような半透明なストーンの中に月と星が寄り添っているペンダントだった。俺より星宮先生の方が似合うと思うが、くれたということは、先生の美的センスは俺が似合うと言っているのだろう。
部屋で鏡越しに見るのに三十分かかった。なんだか照れくさいし、鏡はそれほど得意じゃない。見るのは一日一回程度。朝だけ。最近はガラスに映ったときに髪型が気になったりするが、別にナルシストでもなんでもなくて、年頃の微妙な心の変化だ。決してナルシストではない。絶対に違う。
ところで、先生は俺に『残酷』だと言った。何が残酷なのだろうか。首を繋ぐ美しい鎖を残して消えた先生の方が、よほど残酷だと思う。おかげで俺は、ずっと先生を思わなければならなくなった。夕食を作っていても食べていても風呂に入っていても、きっと星宮先生で埋め尽くされるだろう。
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