第8話 悶々とした気持ち
しっくりしないまま、日曜日に突入してしまった。休みのほど嬉しいものはないが、星宮先生に会えない。休日に入る前に、怪我の具合を心配すべきだった。まだ歩き方がおかしかった。
ラッピングされた琥珀糖を鞄に忍ばせたまま、薫子さんに頭を下げた。梅雨入りで今日は土砂降りだと天気キャスターは自信満々だったのにもかかわらず、雲はうっすら空にかかる程度で、太陽が顔を出している。
「いつもありがとうね」
「構いません。掃除でいいですか?」
「うん、お願いね」
梅雨の時期に合わせて大掃除をしようとしていたらしいが、この天気だ。まさか晴れるとは思わなかったようで、客足が遠退くことはない。親父から押しつけられた手伝いを給料前払いに変え、蓮見和菓子店までやってきたのだ。
「テスト前じゃないの?」
「赤点は取らない程度にはやってるんで、大丈夫です。それにテストは七月だし」
酷い点は取らないはずだ。多分。
薫子さんはお茶を入れるから中に入っていてほしいと言う。何度か上がらせてもらった居間には、誰もいない。和室にちゃぶ台は、親父の古い実家でも見ない。人様の家だが、落ち着くのは根っからの日本人だからなのかもしれない。
お盆にコーヒーと今朝作ったばかりだというどら焼きが乗っていた。あんが多すぎてまるまると膨らんでいる。
「この前の琥珀糖はどうなったの? 美味しくできた?」
薫子さんからすれば、緊張の空気を破ろうとした優しさだろう。今の俺には耳の痛い話だ。
「……作った。多分、美味いと思う」
「食べてないの?」
「ないです」
鞄から箱を出し、薫子さんに手渡した。
「え?」
そりゃあそんな声も出すだろう。記念日でもないのに、気合いの入った箱を見れば。
「これ……」
「お世話になってるんで、どうぞ」
「ありがとう……」
訝しげな目を俺に向け、嬉しいというより困惑に近い。
「和菓子屋の人に和菓子を渡しても、困るだろうけど」
「ううん、まさか。とっても嬉しいわ。ちょっと待ってて」
薫子さんは立ち上がり、またどこかへ行ってしまった。
後付けの理由だが、実際に親父共々お世話になっていることは事実だ。
戻ってきたとき、手には封筒を持っていた。
「これ、あげる」
封筒ごと受け取り、薫子さんは開けてみてと言う。
「……プラネタリウム?」
「新しくプラネタリウムができたんだけど、そのチケットなの。よければ行ってきてね」
ああ、そういうことか。
詳しい事情を話さなくとも、薫子さんには察していた。
リボンや包装紙を見て、これは自分を想って包まれたものではないということ。別の誰かを想い、渡すべき相手は他にいたということ。
きっとこのプラネタリウムのチケットは、愛する人と行くべきもので、本来渡すべきはずだった人と行っておいでと、薫子さんは告げている。チケットは勇気の塊だった。新聞紙や雑誌より軽いのに、俺にはずっしりと重く感じた。
「…………すみません」
「何を謝っているの?」
大人の余裕で、春の風のように暖かな笑顔だ。俺は、自分のことしか考えられない余裕のない子供。
薫子さんは、それ以上掘り下げないでいてくれた。天気のや作っている和菓子の話など、角が立たないような話ばかりだった。
開店の準備のためにフロアに戻ると、すでに客人が扉の前にいる。俺はホウキの片づけもせずに、急いで内鍵を開けた。
「先生…………!」
「びっ……くりした……」
先生だ。俺の担任だ。ラフな格好に、いつもの黒縁眼鏡はない。クラスで俺だけが知っている。俺だけの特権。
「ど、え、なんで?」
「あの……和菓子を買いに……」
聞かなくてもその通りすぎる。ここは和菓子屋だ。星宮先生は、蓮見和菓子店に興味を持っていた。
「お客様? どうぞ中へ」
「大丈夫なんですか?」
「ええ、今開けようと思っていたところなんですよ」
「お邪魔します……」
なんだかとてつもなく恥ずかしい。家族に知らない私生活を暴かれたようで、背中に緊張と汗が集中している。変質者と言われようが、先生の回りをうろうろしたくなる。
「この前の……あの和菓子……」
「この前?」
「えと……」
星宮先生は俺を一瞥すると、柏餅を指差した。
「とても美味しかったので」
「……美味しかった」
薫子さんは目を見開く。復唱ついでに俺を見るのはやめてくれ。居心地が悪い。逃げ出したい。
「それと、白あんを使ったおまんじゅうを」
「何個にします?」
「二箱お願いします」
「かしこまりました」
ひとりで食べるわけではないだろうが、渡す相手が気になる。そわそわしていたのか、星宮先生は俺を見て微笑んだ。
「片方はね、おばあちゃんに贈ろうと思って」
「……きっと喜びます」
萎んだ風船が一気に膨らみ、空へ飛び立つようだ。単純すぎる。
「一ノ瀬君はお手伝い? えらいえらい」
「先生、この後の用事は?」
「……特にないかな」
「なら、途中まで送っていきます。俺も暇だし」
「ありがとう」
襟元から見える白い首は包帯も取れ、跡も残っていない。
先生、と呼ぶと薫子さんは不思議そうな顔をするが、何も言わないでいてくれた。母親でもないのに挨拶をしていいものか、干渉できる範囲を推し量ってくれた。薫子さんは良い人だけれど、何でもかんでも話せる仲ではない。それは親父も含まれる。
「先生……その、怪我は大丈夫ですか?」
これだ。この一言を言うだけで、長い年月を費やした。それくらい、勇気と軟弱が入り混じった言葉だ。
「ありがとう……」
先生の声は、泣きそうに歪んでいた。気づかないふりをすべきで、空を見ては鳥の数を数えようとしても、あいにく鳥は飛んでいない。
「一ノ瀬君、ありがとうね」
二度目のありがとうに、空から目をを外した。
「あのとき……一ノ瀬君が連れていってくれたんだよね」
あのとき。目まぐるしくここ数週間での出来事が浮かぶ。
「怪我したとき?」
「うん。あんまり覚えていなくて。救急車で運ばれて、気がついたら五十嵐先生がいたんだ」
なぜそこで天敵の名前が出てくるのか。
「病院で僕の手を握ってて、」
「聞きたくない」
「……ご、ごめん…………」
「や、違う、そうじゃない。それで?」
「……手が、違うって言ってた。大きさとか暖かさとか、馴染まなくて。五十嵐先生にずっとここにいたんですか、って聞いた」
「そしたら?」
「いました、心配していましたって。でも、ずっとではないんじゃないかって思ったんだ。一ノ瀬君の声をずっと聞いていたような気がして。保健室の先生に聞いたら、背の高い生徒が運んできてくれたって。救急車来るまで、側にいてくれたんでしょう?」
「あ、ああ…………」
「本当にありがとう」
まっすぐに向けられる声に、無意識で鞄に手を入れていた。握るのは封筒に入ったチケット二枚。
「この前、俺に星を好きになってほしいって言いましたよね」
「うん」
「だったら、教えて下さい」
ラブレターを渡すときみたいに、心臓があっちこっち動き回っている。生まれてこの方、渡したことは一度もないけれど。
「これ……新しくできたところだよね? どうして持っているの?」
「もらいました。先生、連れていって下さい」
「え……今?」
「はい」
おそらく、先生もパニックを起こしている。いつ行くかが問題ではない。誰と行くかが問題だ。
「でも……さすがに……そんな顔しないで」
よほど泣きそうになっていたのだろうか。
「星について勉強したいだけです。先生なら詳しいだろうし」
苦し紛れの言い訳だ。
先生は困った様子で首を傾げると、チケットを受け取った。
「僕も、ここに行きたかったんだよね」
「そうなんですか?」
「……行ってみる?」
夢のようで、現実だ。何度も本当か聞き返したかったが、なかったことにされるのも嫌なので、交通手段は何か聞き返した。
「車で来たよ。もう運転できるようになったから。駐車場に停めてある。行こう?」
俺の方が足幅は広いはずなのに、先生は先に行ってしまい、慌てて追いかけた。気持ち、少しだけ離れて歩いた。意味もない行動でも、罪の意識からは逃れられた。
お邪魔します、と助手席に乗ると、先生はボックスの中を開けるように言った。
中から出てきたのは、先生にあまり似つかわしくないサングラスだ。
「それ掛けて。一応、生徒だし」
「これ先生の?」
「ううん。元彼」
元彼と言ったか、今。五十嵐よりもパワーワードだ。
先生らしい安全運転で、駐車場を後にした。
「似合うよ。どこかの組の人みたい」
「ときどき、生徒に対する言葉じゃないものが交じるよな、先生は」
「でも似合ってるからいいじゃない」
「元彼ってなんだよ。それを俺に掛けさせるのか」
なぜか先生が吹き出した。先生が笑うたび、俺の機嫌は損なわれていく。でも別のメーターが上がっていく。なんだこれは。
「先生は別れた人の物を捨てないタイプなのか」
「そうだね。ただの物だし。さすがに指輪やピアスは捨てるけど」
「ピアス……右耳に開けたんですか」
「どうして知ってるの?」
「保健室で星宮先生が寝てるときに見た」
「彼氏に開けられたんだよ。深い意味はないって。もうほとんど塞がってるし」
「俺にとっては、充分に深すぎる理由だけど」
またまた先生は笑う。先生が笑うと、俺は嬉しい。別のメーターは下がるけれど。
「ところで、どんな経緯があって、チケットを手に入れたの?」
「紆余曲折いろいろありました。それはもう、胸が締めつけられるほどに」
「なにそれ。今日の一ノ瀬君は面白いね」
琥珀糖の話はなしだ。とてもじゃないが、話せない。
「先生には笑っていてほしいです。今まで辛いことがあっただろうけど、楽しいことだって待ち受けている……と思うから。恋愛だって、一生の出会いがあるかもしれない」
最後まで言えずに、声が震えた。星宮先生は返事をしなかった。黙って前を向き、先を見据えている。大人びていて、運転もできて、社会人なんだと痛切に感じる。
着く頃になって、先生は口を開いた。
「時間があったらさ、ちょっとお茶しない?」
「…………したい」
「いろいろお礼をするよ。柏餅も美味しかったし。サングラスどうする? 外していく?」
「外しますよ。なんで笑うんですか」
「似合う似合う」
「プラネタリウムは真っ暗だし、大丈夫でしょう」
「入る前に止められるかもしれないしね。反社の人はダメだって」
「先生…………」
「あははっ」
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