第7話 秘めた気持ち
「おはようございます」
覇気のない声で軋む引き戸を引いたのは、紛れもなく俺の担任で。一瞬で教室内が静寂に包まれた。
「出席を取ります」
席替えをしても、息をするようにほぼ全員の生徒の名前を読み上げた。空白の席は、すでに連絡が回っているのか呼ばれはしない。
今日はやけに静かだ。呼吸すら忘れてしまうほど、生活音すらできるだけ鳴らさないように、一つ一つの動きを気をつけている。
一言声をかけてやればいいものを、俺はそれすらできなかった。
額と首には痛々しい包帯。歩き方もどこかおかしい。足が上がらないのだ。それだけじゃない。教壇に乗ろうとしたとき、先生の足が幾分か引っ込んだ。精神面でもやられている。トラウマにもなる。一限目の国語は、古賀がいないせいもあってかやけに静かだった。
授業の終わりを告げ、一番に動いたのは副委員長だった。悔しい。声をかけてやれないのに、盗み聞きはする俺は意気地なしだ。
「先生、大丈夫ですか?」
「はい、どこも問題はありません」
「包帯…………」
「見た目ほどではありませんから。次の授業に遅れないようにね」
じっと見ていたのに、星宮先生は俺を見向きもしない。俺の視線など遮り、教室を後にした。後ろ姿は、もうここにはいたくないと全身から醸し出されていた。追いかけられない俺は、臆病者。
目の奥に痛みが走っているけれど、全力で走ってどこかに行けと切に願う。
悶々としたまま昼休みになってしまった。今日は食堂でも購買でもなく、特別な日でもないのに親父が作った弁当だ。梅雨入り前の最後の外食気分を味わおうと、屋上の扉を開いた。
運命か悪魔の囁きか。小柄な生徒……ではなく、よく見知った後ろ姿があった。首と頭に包帯を巻き、手すりに寄りかかりながら空を眺めている。やはり痛みがあるのか、下を向いて首をさすっている。
慣れた教室より、ふたりきりの見慣れない場所の方が、勇気を出すにはうってつけだった。
「星宮先生」
つい先日のことなのに、呼んだのは数か月ぶりのように感じられた。ゆっくりと振り返った星宮先生は、どこか目が虚ろで、恐怖で足元から震えが起こる。背後の手すりも相まって、考えたくもない先の未来がよぎり、次にかける言葉が浮かんでこなかった。
「一ノ瀬君」
俺の名を呼ぶと、目に六等星くらいの輝きは宿った。
「ご飯は? ちゃんと食べた? 午後は体育があるんでしょ? ちゃんと力をつけないと」
「自分より、俺の心配かよ」
「それは……担任だし」
つられて、俺も笑った。
「先生はご飯食べました?」
「まだ……かな。食欲が沸かなくて」
袋が手すりに置かれている。中身は焼きそばパンと、あんぱん。同じパンでも両極端すぎる。
「おにぎりにすれば良かったよ。今になって米が食べたくなっちゃって」
「交換しますか?」
「え?」
手すりの袋と弁当を交換し、俺は焼きそばパンを取り出した。
「立派なお弁当じゃない。悪いよ」
「俺、パン好きだし」
「……いいの?」
「どうぞ」
星宮先生は小さくお礼を述べ、グラウンドから見えない位置に移動した。俺も後ろをついていく。壁を背に座り、星宮先生は弁当の蓋を開けた。
焼きそばパンは代わり映えのない味だ。安定しているとも言えるし、絶対の美味さが約束されている。半分ほど食べ進めていると、星宮先生の手が止まっていることに気づいた。
「………………あっ」
「……あの、えと…………」
「違うんだ! それは!」
言い訳するほどに誤解が生まれている。
親父がお得意だと自信作であるクマのキャラ弁と、ハート型の卵焼きにハート型のソーセージにハート型の人参の煮物。星宮先生は固まっている。これはなんだと、俺が聞きたい。
「…………すごいね」
「先生、待ってくれ」
「びっくりしちゃった」
「俺も。けど、違う。いや違わない」
「ん?」
「先生、あのさ」
俺が焦れば焦るほど、先生は笑う。もっと笑顔を見ていたくて、誤解を解かなくても、このままでもいいのかもしれない。
「ああ、もう」
「うん……美味しいよ。卵焼きはしっかり出汁が利いてる」
半笑いで美味しい、と何度も言う。俺はあんぱんにかぶりついた。八つ当たりするように、大口で食べてやった。
「愛されてるね……ほんとに」
誤解してないよ、大丈夫、とも聞こえた。それかとても寂しくて、先生の横顔を黙って見つめた。
「この前、星が苦手って言ってたでしょ? あれについてずっと考えてた。家に帰ってからも、授業中も」
それは、俺のことを考えていたと同等の言葉だろうか。
長い睫毛が動き、目が俺を捉えた。
「一ノ瀬君に、星を好きになってほしい」
「俺に…………」
「トラウマを乗り越えるって難儀なことだけど、……僕も乗り越えられないものがあるけれど、星に罪はないから」
星に罪はない。当たり前すぎて見失っていた意見だ。確かに、星は何も悪くない。いつも空から照らし、大抵の人間に安らぎを与えてくれる。
先生は、弁当をすべて平らげてくれた。俺が作ったわけではないが、誇らしい。
「先生だって、トラウマを乗り越えられるよ。ゲイだから居場所がないって言ってたけど、俺は……先生の拠り所になりたい」
「ありがとう。優しいね、一ノ瀬君は」
ああ、そうか。俺は、この笑顔をずっと見ていたいんだ。ずっと、独り占めしたいんだ。
認めてしまえば重荷が軽くなった。落ちるべき場所に収まり、もう少し距離を縮めたくなる。
俺は、先生と仲良くなりたいんだ。
「星って言えば、俺の誕生日は七月七日なんだよ」
「え、そうなの? やっぱり好きになるべきだね」
「毎年憂鬱なときもあったけど、今年は好きになれるかもしれない」
「そっかそっか。お互いにトラウマを乗り越えられるよう、頑張ろうね」
ただし、先生がいてくれるなら、と心の中で付け足して。
午後の体育は、おかしいほどにバスケットでダンクシュートを決めまくった。
放課後は水を差すように、予定にはなかった雨が降り始めた。傘を持ってきている生徒は少なく、俺もない。
「今日どうすんのよ」
「黙って手を動かせ」
固まった琥珀糖を箱に入れ、ラッピングをすれば完成となる。ちなみに世良は、もうすぐ誕生日だという父親にプレゼントするだそうだ。
「アンタ、器用ね。リボンが曲がってない」
「まあまあだ」
「誰に渡すの?」
「秘密」
世良はそれ以上、突っ込んだ話をしてこなかった。義理とついているため、触れてはいけないと判断したのだろう。
「今日、傘を持っている人はいる?」
「誰もいないと思うぞ。迎えにきてもらったらどうだ?」
「……それがいいかもね」
「近江は?」
「あの……傘があるので」
「うわ、準備良すぎじゃない?」
「お母さんが、持っていけって言ったので」
星宮先生は大丈夫だろうか。怪我の具合を見るに、車で来たとは思えない。
派手なラッピングはしないつもりだったが、渡されたリボンも断れず、結局包装してしまった。
今日のクラブ活動はラッピングだけだ。次の活動は、文化祭となる。七月はテストもあり、忙しい。
世良は迎えがきたと、慌ただしく帰っていった。残りの片づけを俺と近江で終わらせた。雨足は弱くなるどころか強くなる一方で、バス停まで濡れて帰らなければならない。
「一ノ瀬先輩、よろしかったら、入っていきませんか?」
「…………や、それはさすがに」
そこまで親密でもない女子と傘に入るわけにはいかない。世良くらいの関係性になればどうってことがなくても、それでも俺の気持ちに反した行動を取るには、誰であろうと抵抗がある。
「傘に入るだけですよ?」
傘に入るだけ。手を繋ぐだけ。公園で和菓子を食べるだけ。
友達や後輩、恋人との境界線は人によって異なると突きつけられる。俺は、傘に入る行為は恋人同士でする認識だけれど、彼女は違う。照れもせずに傾ける様子を見ると、過去にも似た状況があったと匂わせている。
「先輩が持って下さいね。先輩の方が背が高いんだし。何センチあるんですか?」
「百八十センチくらいだな」
「うわあ、やっぱり大きいんですね。すごいすごい」
傘を渡され、彼女に傾けつつ俺たちは校門を出ようとした。
「あっ……あれって」
近江の声に俺も視線を送る。
見たくなかった。傾けた傘がさらに下がり、俺の肩はずぶ濡れ状態だ。昼間の高揚感が嘘のように、雨で気持ちも冷えていった。
星宮先生が、生活指導の五十嵐と一緒にいた。しかも、状況は俺たちと同じ。一つの傘に大きな身体と小さな身体が重なり合う。
星宮先生が俺たちに気づいた。驚いて大きな目がさらに大きくなる。足が止まると、五十嵐も俺たちに気づいた。
「あいつ…………」
口角を上げた顔を俺は忘れないだろう。トラウマに似た感情は心に刻まれ、何かの拍子に顔を出す。星宮先生を好きでいる間は、苦しめられるだろう。
先生たちは角を曲がり、駐車場の方角へ行ってしまった。
「やっぱり星宮先生が男好きだって噂は本当みたいですね」
「たかだか傘に入っているだけだ」
「普通、好きでもない人と入りませんよ」
「急な雨だし、先生たちも傘を持ってきてなかったんだろ」
「……そうですね」
近江にじゃない。目の前に広がっていた現実を誤魔化したかっただけだ。そう、たかだか傘だ。よくある話だ。何も落ち込む理由はない。
「悪い。やっぱり先行くわ」
傘を返し、駐車場とは真逆のバス停まで走った。近江の声が聞こえても、とにかく走った。バス停について待つ間に次第に雨が弱くなり、二重に運が悪かった。
帰りは少しだけ遠回りをして、帰った。家には親父の靴が一足。薫子さんに会ってもうまく話せる自信がないし、安堵した。
「なんだ、濡れたのか」
「ああ」
「早く風呂に入ってこい」
暢気な声にいくらか気分が落ち着いた。弁当のことを言いたくても、あれのおかげで先生と話す話題もあったわけで、複雑な心境だ。それに責めれば次は何を作るのか恐ろしい。
すでに湯が張ってあり、頭まで突っ込んだ。今日一日だけで数種類の爆弾を投下しすぎた。しかもすべてが頭に直撃している。一つくらい避けても良かったのに。
まず、俺は星宮先生が好きだ。潔く、そこは認めよう。異変は、彼がゲイバーから出てきたときの格好だ。分厚い眼鏡も目の見えない髪型でもなく、大人びた表情に目が離せなかった。平然と学校に来る姿は、打って変わって相変わらずの野暮ったい格好で。俺しか知らない姿に、ちょっとだけ独占したくなった。
そして、独占を邪魔する男がいる。俺より立場が上で、一応目上の人間で、いざというときは俺は一歩引かなければならない相手。
星宮先生は、五十嵐のような男をどう思っているだろうか。強引なところは、ゲイバーから出てきた男に似ていた。別に、先生が誰と恋愛をしようが知ったこっちゃない。俺は、仲良くなりたいだけだ。
廊下で父親が俺の名を呼んでいる。湯船から上がると、長く入りすぎたのか立ち眩みがした。
入浴剤を入れた湯は、俺が作った琥珀糖の色に似ている。未だに贈り主を定められないまま、風呂場を後にした。
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