第12話 文化祭

 一日寝かせたポルボロンは、しっかりと味に深みが増して大成功だと満場一致で自画自賛だ。 ラッピングをして並べれば、立派な店の完成となる。

 販売は午前が俺と世良、午後は水島と近江だ。

「最近さ、古賀の奴おとなしくない?」

「おとなしいって言うか、あれが普通なんだよ」

 九月に入り、当たり前の顔をして教室に入ってきた古賀は、黙って席に腰を下ろした。あるべき場所に戻ってきたが、浮いた存在となっていた。授業に参加しても、一人だけ別次元にいるように空間がねじ曲がっている。

「今日みたいな日は要注意したいけどね。あいつ、何やらかすか分かんないし。みんな浮かれてるし」

 世良の言葉に、背中に虫が這った感覚が襲ってきた。子供の頃、頭に落ちてきただけでもおぞましかったのに。あのときの非じゃない。

「ちょっと、どこ行くのよ」

 ドアを開けると、小さな身体にぶつかった。転びそうになる彼の腕を引き、間一髪だった。

「みさき先生……」

「びっくり……どうしたの?」

「や、なんでもない」

 みさき先生は、腕と俺を交互に見る。離せってことか。

「いいな……美味しそう……僕も買っていい?」

「まいど!」

「八百屋かよ」

 銀色の硬貨三枚と交換されるポルボロンは、幸せだろう。

「先生は何か願いを唱えるの?」

「口の中に入れてポルボロンって唱えるやつ? 恋が叶いますように、とか? 高校生ならそう願う人は多いだろうね」

「きゃっ」

 世良は可愛い子ぶるが、普段を知っている者からすると、何とも言えない間が流れる。

「一ノ瀬君は、何を願う?」

「……みさき先生が、怪我をしませんように」

 さっきの話で恐怖が溢れ出たのは事実だ。先生はなぜか吹き出して笑う。

「そんな風に願ってくれるのは、一ノ瀬君だけだろうね。もう大丈夫だよ、ありがとう」

 ポルボロンを大切に持って、先生は行ってしまう。先生の願いは、まだ聞いていない。

「行ってきなよ」

「…………ああ」

 世良の後押しと近江の無言の圧力は対照的で、どちらにせよ居づらかった。みさき先生の行くところは、職員室か、あるいは。

 階段を上り、屋上の扉に手をかけた。

 生徒もいない。辺りを見回すと、背後には小さな背中があった。

 肩を叩くと、思っていた以上に揺れて俺の方が驚愕した。

「ここは学校じゃなくてお化け屋敷なの? もうっ」

「悪い」

「落ちちゃうかと思った」

「そしたら、俺が先生の手を引き上げるよ。絶対に先生の手を離さないし、なんなら俺が代わりに落ちても構わない」

「…………あの、ポルボロンの話なんだけど……」

 手すりにがっくりとうなだれた。恥ずかしい。ここから落ちた方が、あっつい顔も隠せるんじゃないのか。

「よくできてるね、これ。すごく美味しい。作るコツはあるの?」

「薄力粉をフライパンで焼くこと。あとはそんなに難しいお菓子じゃないです」

「三百円で申し訳ないくらいだよ」

 口に入れている最中は、話しかけないようにした。もしかしたら何か願っているかもしれないし、邪魔をしたくない。

「気になる?」

「え? あ……はい」

「僕の願いは、叶ったら言うよ」

「叶いそうですか?」

「どうだろ……望み薄、かもしれない」

「待っていても、望み通りにはならないと思いますよ。教師になるのだって、みさき先生は勉強したからなれたんだし」

「良いこと言うね。というか、教師である僕の台詞だよね」

「確かに」

 階段から足音が聞こえる。少し違った自分を出したい、今ある現状から逃れ、違う世界で新しい自分をさらけ出したいと願う人間は、多い。屋上はうってつけだろう。俺はみさき先生とふたりきりになりたかった。残念ながらタイムリミットだ。

「じゃあ……先に行ってるね」

 手すりにある俺の手に、韋駄天と思わせるほどの速さで手を重ね、離れていった。

「あー、もう」

 みさき先生は火を操れる魔法使いだ。俺の手がこんなに燃えている。俺にしか見えない炎が、首筋を通り顔にまで移ってくる。

 入ってきたのは、見知らぬ男女の生徒だった。あちらは俺の顔を見ては複雑そうに目を逸らす。ならば、空気を読んで退散するしかない。

 いつもよりも賑わう校内は、隣町の制服を着た生徒や子連れの親子など、普段とは一風変わった雰囲気だ。目を合わせると喧嘩を売ってくる輩もいるので、できる限り人の顔は見ないようにする。もう少し愛想が良ければいいのに、こういう顔だと損ばかりだ。

「先輩」

 角で後ろから腕を引かれ、曲がり損ねてしまった。

「近江。店番じゃなかったのか?」

「お店は終了です」

「終了?」

「全部売れました」

 何が何でも早すぎる。去年も午前中に売り切れたが、まだ一時間も経っていない。最高記録だ。

「ちょっといいですか? 話があるんです」

「構わねえけど」

 屋上で会った男女のように、楽しい話ではないだろう。楽しい話でも困るけれど。

 屋上に行こうとする近江にやめておけ、と言った。怪訝な目で見られたが、今行くべきではない。一旦、外に出て、中庭へとやってきた。ベンチは使われていたので、少し離れた花壇に腰掛ける。

「単刀直入に聞きますけど、星宮先生とどんな関係なんですか?」

 何が聞きたくて、こんな質問をしたのだろうか。きっと裏がある。どんな関係なのか、聞きたいのはそこじゃない。

「どういう意味だ?」

「八月に花火大会がありましたよね? 先生と一緒にいるところを見たんで」

 全身の血が一気に下がっていく気がした。

「先生の住んでいるマンションの前にマンションがあって、私、そこに住んでるんです。スーパーに行った帰りに、星宮先生のマンションに入る姿を見ました」

「他の生徒に言うのか?」

 近江は嘆息を漏らした。

「やっぱり、一ノ瀬先輩だったんですね。さっきの、半分は嘘だったんです。背格好がなんとなく一ノ瀬先輩に似てると思っただけで、確証はなかった」

「それで、俺にどうしたいんだ?」

 開き直ろう。見られていたのなら、それしかない。

「別に誰にも言いませんし、脅そうとも思っていません」

「目的はなんだ」

「物騒なこと、言わないで下さい。目的とか、そんな。ただ先輩の好きな人が気になっただけです」

「なんで?」

 今度は盛大にため息を吐かれてしまった。

「なぜ私がスイーツクラブに入ったのか分かりませんか? 大して甘いものは好きじゃないのに」

 まさか。まさかまさか。

 男ならば有頂天になってしまうであろうシチュエーションでも、止めてくれ止めてくれと、身体の底から声が聞こえる。独りよがりの好意の押しつけは、つらいと知っているから。

「中学生の頃から、好きでした」

 止めてくれ。

「私の見た目、どう思いますか?」

「見た目?」

「可愛いとか、痩せているとか」

「そのまんまなんじゃないのか。お洒落が好きってイメージがある」

「中学生のときですけど、トイレに閉じ込められていた生徒を助けたこと、思い出して下さい」

 記憶を探っていくと、すぐに見つかった。個室トイレの中ですすり泣く声が聞こえ、勇気を振り絞って女子トイレの中に入ったときだ。呼びかけて何度かノックをすると、助けてとこの世の終わりだというほど、力ない声だった。

 上からよじ登って中の様子を見ると、水浸しでしゃがむ女子生徒がいた。床に転がるバケツ。ひと昔前のいたぶりをどこで学んだのか。時代遅れすぎて、ジョン・タイターでも現れたのかもしれない。

 理由を聞くと典型的ないじめで、怖くて鍵を開けられなかったと訴えていた。

 あのときの女子生徒しか考えられない。けれどあまりに違いすぎる。今の彼女はほっそりしていて、少し顔色が良くない。

「ダイエットしましたから。三十キロ減らしました」

「そうだったのか……」

「告白の返事は入りません。様子を見て理解していますから」

 謝ろうと喉まで出かかったものを、なんとか押し留めた。謝罪すれば、彼女を追い詰めてしまう。

「努力しても、手に入れられないものもあると、勉強になりました。あと、私は一ノ瀬先輩の恋は上手くいってほしいとは思ってませんから」

「それはそうだろう」

「私自身、汚物の塊なんで、不都合なことは消えてほしいとさえ思ってます」

「努力してるからこそ、人の幸せを願えないんだよ。近江は立派だと思う。変わりすぎて分からなかった」

 ポケットには、交差点でもらったポケットティッシュが入っている。パッケージは男女の黒影が怪しげに絡み合い、でかでかとフリーダイヤルが書かれている。致し方ない。近江に渡した。

「……こういうの好きなんですね」

「違う。違わないけど」

「冗談です。ありがとうございます」

 頬を拭い、近江はティッシュを握り潰した。

「星宮先生のどこが良かったんですか?」

「説明できない。気づいたら目が離せなくなった」

 テストより難題だ。自問自答なんていくらでもしたし、好きになってはいけないタイプの人だ。エベレストよりも高い山があり、頂上が見えない。先生の気持ちだって、はっきり知らない。

「クラブを辞めるのか?」

「いきなりですね。辞めませんよ。三年間続けていれば、面接のときも得でしょうし、害より利の方が大きいんで。それに私が辞めたら部の存続が危ういんじゃないんですか?」

「それはそうだな」

「部のためだと一番に考えられませんけど、たまに来てお菓子は作りたいです」

 近江は立ち上がって、スカートを払った。

「あれ……古賀さんじゃないですか?」

 ポケットに手を突っ込んだまま、横切っていった。鞄も何も持っていない。向かう先は自転車置き場の方角だ。

 近江と別れ、ばれないように距離を取って後ろをついていく。嫌な予感がした。虫の知らせを感じられるほど鋭い感性はないが、古賀の顔は、オリーブオイルを床にぶっかけたときの顔と変わらなかった。

 古賀は回りを警戒している。校舎を背にもたれ、視界に入らないように隠れた。そっと覗くと、彼はしゃがんでいる。得体の知れない気味の悪さが背中を這い、俺は隠れていたのも忘れ走り出していた。

「……お前が犯人だったのか」

 焦るでもなく、古賀は笑ってゆっくりと立ち上がった。

「何のことだ?」

「なんで画鋲持ってんだよ」

「落ちてたから危ないと思って、回収していただけだ」

 なぜそうやって平気で嘘をつけるのか。目を背けるでもなく、鼻を掻くでもない。平然と笑い、悪魔の微笑みにしか見えない。

「お前みたいな奴を見てると、大事なもんをぶっ壊したくなる」

 数台の自転車のタイヤは、元気が無くなっている。よれよれで役割を果たせず、隣のタイヤとは同じ大きさなのに小さく見えた。

 まかれた画鋲を拾っていると、背中に影が重なった。大きくて、想い人ではない。

「何をしている」

 蔑んだ声は、軽蔑の色、一色だ。声を聞いて、誰なのか瞬時に理解し、会いたくない人物には一番に会うもの。

 目は口ほどに物を言うとは、まさにこのことだ。古賀はすでにいなくなっていて、どうしようもない状況に追い詰められ、うまく声が出ない。出し方が分からない。

「指導室に来い」

 五十嵐の目は、お前が犯人だと差別が含んでいた。

 遮光カーテンのある指導室は、部屋というより取調室に見えた。俺を奥に座らせたのは、逃げ道を塞ぐためか。

「何度やった?」

「俺はやっていない」

 お互い睨み合いの時間が続く。ここは、俺も負けるわけにはいかない。

「文化祭中に自転車置き場にいた理由を言ってみろ」

 息を飲み込んだ。俺は善人でもない。けれど、クラスメイトを売る真似もできなかった。

 騒がしい廊下から、子供のような走る音がする。音まで聞き取るなんて、こんな状況なのに乾いた笑いが込み上げる。

「一ノ瀬君っ」

 暑い中、走ってきてくれて、こめかみから汗が流れている。状況は良くなるどころか悪化していくばかりなのに、目の奥が痛い。

「お話しした通りです。あなたのクラスの生徒が、まだ文化祭中だというのに自転車置き場にいたんです」

「……………………」

「何をしていたと聞いても、彼は黙りを貫いたままです。もう決まりでしょう」

「何が、決まりなんですか?」

 みさき先生にしては珍しく低い声だ。

「何がって……状況証拠は揃っています。あとは彼が口を割るだけです」

「分かりました。その役目は僕が行います。担任ですので」

「触んなよ」

 五十嵐がみさき先生の肩に手を置いた。責められるより、頭に血が上った。みさき先生が軽く交わしてくれたおかげで、上った血は徐々に平常通りになりつつある。

「五十嵐先生は教育指導担当の方で、とてもお世話になっております。ですが、それぞれ役割というものがあります。ここは僕に任せてほしいのです」

「……何かあったら、必ず報告して下さい」

 納得できないと顔に書いてあるが、担任が間に入ってくれたおかげで、俺も頭の片隅が冷静になれた。

 鬼が歩いているんじゃないかと思わせるほど、大股で大きな足音だ。みさき先生とは真逆すぎる。

 足音が遠退くと、五十嵐が座っていた席に腰を下ろした。しばらくお互いに何も喋らず、俺は先生を観察した。

 机に置かれた俺の手に、先生はそっと重ねた。

 爪先まで指を撫でる。俺も同じ仕草をしようとすると、黙っててと強く握られた。しばらく我慢していたが、くすぐったくて吹き出してしまった。

「……犯人は古賀だった。中庭にいたら、古賀が自転車置き場に行くところを見かけたんだ。追っていった」

「古賀君は何か言ってた?」

「最後まで認めようとしなかった。あいつがばら撒いた画鋲を拾っていたら、運悪く五十嵐とばったり会った」

「勇気を出してくれてありがとう。生徒を疑いたくはなかったんだ。けど、準備室で小道具箱を漁っている古賀君を見た人がいて、ずっと引っかかってた」

「先生の立場からすると、そりゃあ信じたいでしょう。そんな顔しなくて大丈夫です」

「うん……うん」

 机の距離がもどかしい。けれど、繋がれた手は縮まった距離だ。

「一ノ瀬君、あの……僕……、」

 扉がノックされ、合わせたように同時に手を離した。

 入ってきたのは、レアキャラに位置付けされるであろう、教頭だった。この学校に在籍して、見るのは数えられるくらいしかない。口をしっかり噤む様子からは、楽しい話をしに来たわけではないと覚悟を決めた。

「星宮先生に、話があります」

「僕に、ですね。分かりました。先に行くね」

 みさき先生は笑っているが、楽しい話じゃないと、身体中から警鐘が聞こえる。教頭自ら来なければならない理由は? なぜみさき先生だけ?

 教頭は俺を下から上を見て、それだけだ。

 出ていく後ろ姿も、瞬きもせずに指先まで見つめた。目を閉じている時間がもったいない。先生をずっと見ていたい。

 取り残された俺は、部室へ向かう。お祭り騒ぎでも俺の気持ちは晴れなくて、一年に一回の文化祭をせめて楽しもうと決めた。

「もう片づけてるのか?」

「だって売るものないんだもん。看板も閉まっちゃったわよ。ほら」

 世良が投げたものをキャッチすると、みんなで作ったポルボロンだった。

「餞別よ」

「悪いな」

 食べながら願い事をすると、願いが叶うという魔法のお菓子。俺は何を願えばいい。ありすぎて、百枚くらい食べないと叶わなそうだ。

 タイヤのパンク事件については、世良たちに言わないでおいた。必要であれば教師から何かあるだろうし、話してしまうと一連の流れを言わなければならなくなる。中庭にいた理由も。

「近江は?」

「体調悪くなって、保健室にいるってさ」

 俺は行くべきではない。近江のいる舞台に、俺は通行人役ですら必要ないんだ。

 もやもやを抱えたまま、俺は岐路に就いた。端末にも連絡は入っていなくて、待ち一択になっている俺にももやもやした。

「よお、文化祭どうだったんだ?」

「菓子は全部売れた」

「そいつは良かったなあ! 今日は豚の角煮だぞー。好きだろう?」

「あー、うん」

 薫子さんはいない。今日は会いたい気分でもなかった。

 いつもの騒がしい夕食とは異なり、今日はしんみりした雰囲気だ。

「恋の悩みか?」

「ぶっ」

 口の中でゆで卵が弾けた。喉が詰まる。

「相談ならどんどんいいぞ」

「ない」

「相談できない相手なのか?」

 なんでこう、変なところが鋭いのか。

 齧りかけのゆで卵ではなく、角煮に口をつけた。

「いろいろ大変だったんだよ、今日は。パンク事件の犯人の第一発見者になって、指導室でみっちり話をしてた」

「パンク事件?」

「自転車のタイヤがパンクする事件が続いていて、うちのクラスに犯人がいたんだよ。なのに俺が犯人扱いされて、担任に助けてもらった」

 そういえば古賀は、俺に対して「大事なもんをぶっ壊したくなる」と言っていた。破壊衝動が起こる気持ちは、分かるようで分からない。中学時代は自分が消え去りたいとは思ったが、回りを傷つける衝動は沸いてこなかった。彼を動かすエンジンは何なのか。

「何かあれば、俺も学校に行くからな」

 親父の行動力は心強い。恋の相談もしたくなるが、そこは越えてはならない一線だ。だが、いずれ紹介をすることになるのだから、少しは話しておいてみてもいいかもしれない。

 ご飯を食べ終わると、ちょうどメールが数件届いていた。相手は全部愛しのあの人からで、逃げるように部屋に戻る。

──いつも僕を救ってくれてありがとう。

──きっとこの先、君のことは一生記憶に残ると思う。

──絶対に夢は叶うから、信じて先を突き進んで。

──つらいとき、僕は君を思い出すよ。

「なんだよ、これ……」

 まるで別れのメッセージだ。指先が震えすぎて、うまくタップできない。やっとの思いで電話をかけても、虚しいコールが鳴るだけだった。

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