後編 『命』
ラブソングのカルチャー
ラブソングのカルチャー
俺が目を覚ましたのは、あの事故から八年の時間が過ぎ去った頃だ。
「……起きた?」
ウミン――年齢に反した幼い容貌の彼女が俺を俯瞰で覗きこんでいる。
にしても、いくら若いとは言えウミンの顔貌は幼すぎやしないか。
「先生呼んで来ようか?」
「……、」
俺はただ、「いいよ」と口にしたかっただけだ。なのに口が思うように動かない。それに目から入って来る部屋の明かりが過度に眩しくて辛い。その最中、彼女は俺の意識を確かめようと声掛けしてくれる。
次第に彼女の判断で病院の先生を呼んで来てくれた。
先生も周囲の人間も、俺の意識が回復したのには奇跡を謳う外ないようで。
俺こと、三浦彰は奇跡的に命をつなぎ止め、彼女を両眼で見られることが叶った。
しかし意識が回復したばかりの俺はその後も断続的に長い眠りに就いていた。寝ては歳月を経て、目が醒めるたび病室の窓から覗える欅の表情が違うのだから、まるで狐に化かされている感覚でしかなくて。
「――起きた?」
欅の梢が雪化粧を地面に落とし、雪解け水が氷の膜を張っていた頃、俺は彼女と出逢う。
ウミンと見間違うほど顔貌が酷似しているが、でも彼女の矮躯から別人だと判る。
俺は何と発言したか覚えてないけど。
彼女は無感動な面持ちながらも嬉しそうにしていたよ。
◇
その後、俺は従兄の口から自身の現状を知らされる。
例の交通事故で俺は長らく植物人間やっていたことと。俺が病院のベッドで寝ている間に、両親は他界してしまっていた。それに伴って横浜にある実家のマンションは売り払ってしまったそうだ。
なら今度はどこに住もうか、またウミンと一緒に暮らせないものだろうか。
「三浦先生、お久しぶりですね」
「……、」
トオルさん、俺の担当編集だった彼は、八年というスパンを経てだいぶ変貌していた。体躯は肉付きが良くなり、透明感溢れる顔立ちは立派な髭を蓄え戦国武将のように精悍な面構えになっていた。
トオルさんはお見舞いの品を看護婦に手渡すと、俺に思い知らせる。
「先生、こうしてまたお会い出来る日が来るなんて夢にも思いませんでしたよ……先生が事故に遭ったあの日から、僕の人生は転換期を迎えた。別に三浦先生を怨んじゃいません。ただ、人生の世知辛さを思い知っただけで、むしろ今ではいい経験が出来たなって思っているほどです」
彼の台詞や、彼の変貌を見受けて、そこで俺はやっと時の経過を思い知った。
俺が事故に遭ったせいで周囲の人達に迷惑をかけてしまったのだと、思い知った。
「……」
俺はどうしても彼に訊きたいことがあった。
――俺の今後の作家人生はどうなるのですか。
いつかウミンから問い質されたように、俺は今度こそ筆を折るべきなのか?
それは、本当に困る。
「三浦先生、どこか痛いんですか?」
自分の人生を悲観する余り、彼の前で目に涙を浮かべて、要らぬ誤解を生んだ。
「……分かってますよ三浦先生、三浦先生はきっとこう仰りたいのでしょう」
するとトオルさんは席を立ち、病室から出て行ってしまう。
言い振りから察するに、ケータイに着信でも入ったのか?
俺はそんな些末的な日常生活を見受けるのも困難なのか。
「お待たせいたしました三浦先生、三浦先生のタイプであろう居丈高な美人ナースさんを連れて来ました」
は?
「不幸中の幸いじゃないですか、先生が重症じゃなければ、この人から排尿処置を受けることはなかったわけなんですから。いやー僕も入院するならこの病院にしたいなー」
八年振りに思ったよ、トオルさんは天然の鬼畜だったんだよな。この際俺への無礼はいいから、ナースさんへの失言をフォローしてから帰って欲しい。八年振りだと言うのに、彼はまるで変ってないようで何より。
「――でも」
でも、それは純然たる俺の思い違いだった。
「三浦先生が事故に遭ってから、僕が編集を辞めたことは、ご存じのはずないですよね」
トオルさんの言葉に口を噤む、もとより口を開こうとしても思うように口が動かない。
「八年の間に、何があったか伝えた方がいいですよね? 例えば三浦先生にはお子さんがいらっしゃることとか、ご存知でしたか? つまり僕の姪ですね。名前は
……彼女か。
恐らく意識が回復した時、視界に映った彼女のことだろう。
「三浦先生が眠っている間に生まれちゃったのですが、これがもう、本当に可愛くない」
一瞬、ナースコールをしようか迷った。
それで先程の居丈高のナースさんに戻って来て頂き、この人を粛清して欲しい。
「三浦先生の子供じゃなかったら、縊り殺してましたよぉ、はっはっは」
その時、利き腕である右手が微かに動かせた。俺の無自覚な父性が、我が子をなじるこの人への怒りから右手を動かす。トオルさんは瞬間的に動いた俺の右手を見た後、瞳をすぼめ口元を緩ませる。
彼が取った表情は出逢ってから初めて見たような気がする。
気がする、という風に曖昧な原因はやはりウミンにあった。
トオルさんが浮かべた意味深な表情はウミンがよくしていたから。
実の姉弟である二人の肖像が重なり、妙な錯覚が生まれたのだろう。
「さてと、僕はこの辺でお暇させてもらいますね」
これでも仕事中に駆けつけて来ているので、と言うトオルさん。
俺は、トオルさんともっと話していたい。
今後を考えると絶対的に不安で、彼とは一緒に出版業界に再起したくて。
ウミンの重荷になるような余生の過ごし方は絶対に――したくない。
「三浦先生、またお会いできる日を切に願ってます。三浦先生が一日でも早く全快するのを祈ってますから」
そう言い、いつか見た営業スマイルを湛えたままトオルさんは退席する。
せめて、出来れば立ち去る彼に「また来てくださいよ」と口にしたかった。
◇
トオルさんとの面会を終えた俺は暇を持て余していた。
思うように身体が動けば、以前のように執筆に宛がっていた無碍な時が流れる。
エネルギーにベクトルがあるのなら、重力が外から内に向かってるのなら、時の流れにだって何らかの方向性がありそうだ。だから時の流れを目で追おうと、視点を右や左に動かし、病室の景色を脳で文章化したりして退屈を凌いだ。
次第に俺は自身の症状について考察する。
身体は全体的に不自由しているけど、呼吸は自律的に出来ている。
指や腕は相変わらず動いてくれないが、削げ落ちた筋肉への神経は繋がっている感触はある。気になるのは顔だった。両目は機能しているし、耳はトオルさんの声を拾えていたが、顔貌はどうなっているのだ。
「起きた?」
視界の端に、文章化された件の彼女の声が映った。
肉声が文章化して見えるなんて、俺の脳機能はよほどやられているらしい。
「……ねぇ、お腹空いてない?」
意識不明の重篤状態から回復した寝たきりの俺でも、首を動かすことぐらいは出来る。
ウミンと俺の子供である彼女は病室でしばらく読書に耽っていた。
彼女は俺の症状を慮ると、今読んでいる本を語り聞かせてくれたよ。
そして三時間ほど居座った後、彼女は時計を見て帰り支度をし始めた。
「この後雨が降って来る予報なの、だから私はもう帰るね。雨は面倒だし」
随分と所帯染みた理由だな。
彼女は今年で八歳らしいが、年齢に見合わぬ精神は母譲りなのだろう。
そうして彼女は赤いランドセルを背負い、家へと帰って行った。
彼女が居なくなった後、俺は言葉をどうにか発せないものかと、発声練習を行った。
俺はウミンにどうしても伝えなくちゃいけない言葉がある。
その想いが、直向きで不器用な情景を生み、独りきりの病室を満たした。
――コンコン。
発声練習をしていると、不意に病室の扉が二回ノックされる。
「アキ、入るよ?」
雪のように透明で、一本筋通った声音は、彼女で間違いない。
聴き間違えようがない、彼女の肉声は。
彼女の手によってスライド式の扉が開かれ、どこか物悲しい音を鳴らす。
「……」
扉を開いたウミンはしばらく入り口で佇んでいた。
病室の入り口はベッドからだと死角になっていて様子を窺えられない。
お互いに緊張を隠せない感じだ。
俺達の距離感は出逢った当時からでは想像出来ないほど親密なものになっているけど、それが返って互いの重要性を下手に意識させ、八年振りの再会という時系列的事実が緊張に輪を掛ける。
辺りはもう夜に包まれていた。
設備が整っている俺の病室にはLED照明が灯され。
二人の再会に霞を掛けないようにしてくれていた。
「入るね」
そして、俺達は八年振りに視線を合わせた。
ウミンの黒い瞳は今も色褪せることなく輝かしい。
新草のように若々しかった容貌はようやく紅葉色に染まり始めていた。
でもウミンはどんなに老いようともウミンだ。
彼女を瞳に入れるのがこんなにも幸せなことだとは知らなかった。
彼女を視界に入れると、やはり涙が込み上げてくる。
「……」
彼女はベッド脇の椅子に座る。一時間ほど前は俺達の子供が座っていた椅子に。
「私が……私がどんなに話し掛けようとも、起きなかったのに。どういう風の吹き回し?」
仕方ないだろ。
「仕方ないだろって顔してるね」
辛い思いさせた?
「辛い思いさせたって顔……してるね」
それってどんな顔だよ。
俺達は大学で出逢った時からずっとこんな調子だったかも知れない。
瀕死の事故に遭って、奇跡的に八年振りの再会を果たしてもこんな調子だとは。
「それと退屈そうな顔してるね、音楽でも掛けてあげるよ」
そう言い、ウミンは席から立ちあがり、名も知らない花の香りを残して行く。
彼女の後姿は大学時代のものと変わってなくて、一人懐かしさを覚えた。
思えばウミンと出逢ってもう二十年は経ってしまったのか。
俺は当時の心境に戻り、彼女に伝えないといけない言葉を、練習通り口にした。
「――結婚……おめでとう」
「…………ね」
大学を卒業した後、なんとなしにニートになった俺はこの日のことを想像出来やしなくて。ニート生活を続け、将来を不安視するでもなく漠然とした無力感を抱えていた俺は今日のことを知ったらどうしていただろうか。
無様だと笑うか? ニートに相応しい末路だと笑うのだろうか。
そうやって、自分はお前とは違うと言い放ち、また現実から逃げるのだろうか。
「ごめん……ね」
声を震わせて謝るウミンに、俺は「いいんだ」と言うしかなくて。
皮肉にも、彼女の手元にあるコンポからはラブソングが流れていた。
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