そしてサイン会当日。


「三浦先生、サインくれよ」

「……先輩を観客席の中に見つけた時は、なんの嫌がらせだろうと思いましたよ」


 渡邊先輩は不躾に拙作『俺カルチャー』を目の前にポンと置く。


 サイン会はウミンの力添えあって満員御礼となった。サイン会場に入る際、渡邊先輩の姿を見かけて思わず空気を張り詰めらせたが、先輩の手に俺の著書が握られている以上サインしないわけにもいかない。


「なぁ三浦、この後で時間あるか?」

「いいですよ、何か用事でも?」


 例の投資話だろうか、それとも。

 共に失った愛猫を悼む時間でも捻出したかったのだろうか?


 さすがに後者はないだろうけど。

 俺は誘われるがまま先輩とお酒を入れて、その後彼の家にお邪魔したんだ。


「……これが先輩の家ですか?」

「そうだよ」


 先輩の家はベッドタウンの一角にある一軒家で、小洒落た佇まいをしている。

 築年数はどれくらいか知る手立てがないけど。


 俺には先輩らしからぬ持ち家だと思えた。


 酒にあおられ、浮かれ気分で夜の月に照らされる中、先輩の家を傍観していた俺は夢を見ていた。

 いつか俺も立派な家を持つんだ、一国一城の主になるんだと。


 そしたら先輩は俺を放ってさっさと家の中に入り、カギを閉めた。


「ちょっと、ちょっとちょっと!」

「うすのろ野郎が、そんなとこに突っ立ってねぇでさっさと入れ」


 じゃあ、お邪魔します。

 家の中の電灯は切られていて、ほの暗かった。

 察するに先輩はこの家に一人で住んでいるのだろう。


「先輩のご両親は?」

「俺の両親は亡くなって久しいよ、後で親父に線香の一本でも上げるか?」


 時間的に終電はもうないし、タクシーで帰るには遠すぎる。

 今日はこの家で一夜を明かすつもりでいよう。


 なんて、不健全なことを考えていたら、思わぬものを目にした。


 先輩の家には恐らくかつて飼っていたという猫の写真や、大学の顧問をしていた教授の肖像や、先輩のお母さんが映っている写真が居間のダイニングテーブルの上に飾られていた。


「先輩」

「ん?」

「先輩は他人のこと言えたものじゃない」

「どうした急に? ああ、猫のことか?」


 そうそう、その通り。と言うと、先輩は悪びれることなく破顔した。


「俺にだって忘れられないものはある。ああ言ったのは、お前を試したんだよ」

「試される台詞としてはちょっと具体性もないし、何ら俺のためになってません」


 俺が生意気な態度をとると、先輩は感心したようにまた破顔する。


「いいか三浦? 人生、リスクを負わないと何事も進まないんだよ。リスクを怖がって、古巣の中でぬくぬくとしてたら、そんな人生はいつか詰む。あの頃の俺はそれがよく分かってなかった……そのせいでお前にやるせない苛立ちを八つ当たりしちまった、あの時は悪かったな」


「……いや、いいですよ。俺なんだかんだ言って」


 ――先輩のこと、尊敬してますから。


「失望したりもしましたけど」

「そうかよ。お前にいいもの、かどうかは判らないが、見せたいものがある」


 そう言うと先輩は席を立ち、その場を後にして二階に向かったようだ。

 残された俺は事前に差し出された水で頭を冷やし。

 先輩が戻って来るまで飾られていた猫の写真を、ただ愛でていた。


「ほら、これだ」

「何ですかこれ?」


 差し出されたのは一つのUSBメモリーで。

 中を訝しがった俺に対し、先輩は告げたんだ。


「その中には俺が書き上げた小説のデータが入ってる。十数点ほどな」

「先輩、先輩は口振りとは裏腹に、未練たらたらじゃないっすか」


 先輩はどっしりと腰を据えた筆致の作家だ。その先輩が八年を掛けて十数作こしらえるのは、今でも執筆に耽溺しているいい証拠だから。


「いいんだよ。俺のは未練なんかじゃねぇ」

「じゃあ何だって言うんですか」


 即答する先輩に、思わず失笑を零しながら訪ねてしまう。


「亡くなった猫や、親父、母親は俺の未練の象徴なんかじゃなくて、未来の糧だ。さっきも言ったように、人生はリスクを負わないとなんにも出来ねぇ。けどな、ただリスクを背負うだけでも成功しないんだ。人生はそいつ自身、過去に何があって、どう捉え、経験をいかに糧にするかで違うものなんだ」


「……なら」

 なら、俺も愛猫の死を、いかに未来につなげるか考えるようにしよう。


 愛猫の死を無駄にしたくない、とかではなく。

 愛猫と過ごした十八年間の人生に、華を添えたい。


 瞼を瞑ると、愛猫の鳴き声が耳朶を優しく撫でてくれるように過る。


 彼女の声を彷彿とすれば目頭に水滴が滲み始め、鼻腔が塩っぽくなってきた。

 この時ばかりは俺も涙を堪えられなくて。


 嗚呼、今さらになってようやく、泣けたな。って感慨に浸るんだ。


 そして瞼をもう一度瞑ると、脳裏に彼女の――ウミンの姿を描いていた。


「先輩……俺、彼女にプロポーズしようかな」

「本間か? いいと思うぜ」


 それが俺の僅かばかりの、未来への希望リスクだった。

 愛猫が支えてくれた俺の人生は、もしかしたら愛猫が彼女との出逢いを生んだ人生だった。


 この日、先輩の家に訪れてよかった。

 何気なく取ったリスクは、彼女への告白を決意させてくれたのだから。


 成否の如何にしろ、俺はそれをやり遂げる。


 愛猫との十八年間に報いるように。


「十数も小説あるのなら、どこかの賞に出したらいいんじゃないですか?」

「三浦、何回言わせれば気が済むんだよ」


 愛猫の死を見つめなおし、ウミンへプロポーズする決意を覚えた今日この頃だとて。先輩に小説云々の話をすれば、やはり今とて変わってない先輩の、ある種の決意を性懲りもなく聞かされるのだ。


「小説は、金になんねぇんだよ」

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