顔のないジェーン・ドゥ8
夢を見た。
私はカフェにいた。
テーブルを挟んで対面していたのはジェーン・ドゥ。いや、今日カフェで見かけたあの女だった。
女は読書をしていた。ひたすら読書に没頭し、コーヒーは冷め切りガトーショコラは乾燥してぼろぼろになっていた。彼女の世界に私はいないようだった。
私は目の前で濛々と湯気を上げるコーヒーを見つめていた。コーヒーの暗闇に時折映る私の顔はよく見えなかった。
何時間が経っただろうか。
私のコーヒーから湯気が絶え、コーヒーカップの中にどす黒い鏡が形成された。
女のコーヒーは干上がり、ガトーショコラは朽ち果てて砂のようになっていた。
女は小説のページを捲るのをやめた。ようやく読み終えたようだ。
女が顔を上げる。
目が合った。
こんな近くでも女の顔には靄がかかっていてよく見えなかった。私の瞳に映る女には皆顔がないのだ。
女は微笑んだ。私は微笑みを返した。
何故だろう。このやり取りで言い知れぬ安堵に包まれる。私がこの世界に一人ではないということを実感させてくれる。
私は夢の中で決意した。
パズルのピースを埋める旅に出よう。さらなる高次元の幸せを手に入れて不幸になったっていい。せっかく生きているのだから。
女はかびの生えたコーヒーに口をつけた。さも美味しそうに飲んでみせた。
目が覚めた。
妙に寝起きがよかった。頭が冴えていた。
「おはよう」
誰に言うでもなく、私はそう呟いた。
私に人生の伴侶は必要ない。私は一人で生きていく。孤独を、孤高を貫く。
残念ながらジェーン・ドゥとは結婚できない。話をすることもできないし、触れ合うこともできない。顔もない。彼女では私の伴侶になり得ない。
私は洗面台で顔を洗い、着替えを済ませた。
さあ、旅に出よう。目的などいらない。旅は放浪、全てを捨てて臨まなければならない。一から始めよう。
自動車のエンジンをかける。ハンドルを握り、音楽をかける。
キリンジの「エイリアンズ」。
私は泣いた。まだ出発もしていないというのに、涙がこぼれた。
もう二度とこの家に帰ってくることはないだろう。もはや帰るべき場所はなくなった。
これまで築いてきた全てのものとの永遠の別れ。私が築いてきたものなどなんの価値もないちっぽけなものだが、愛着はある。別れというのは悲しいものだ。何度も別れを経験しているが、これは自分との別れだ。初めての別れ。死よりも悲しい別れ。己を半分にわかつよりも辛い別れだ。
エイリアンのような私。ジェーン・ドゥという名の私を捨てて、これから私は旅立つ。
さよなら、私。さよなら、ジェーン・ドゥ。
もう君の助けはいらない。ようやく目が覚めた。君のおかげで私は少しずつ私を取り戻すことができた。
私は全てを取り戻し、これからその全てを捨てる。それでいい。これからは得られるものしかないのだから。いずれパズルは完成する。
私はシャツの袖で涙を拭い、どこかに旅立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます