顔のないジェーン・ドゥ7

 夢を見た。ジェーン・ドゥの夢を。

 願っていたジェーン・ドゥとの再会は案外早く叶えられた。

 私は開口一番にこう言った――君は私に何を望んでいるんだ、と。

 ジェーン・ドゥは答えなかった。ただ、靄の中で微笑んでみせた。

 もどかしい。ジェーン・ドゥが現れたということは、まだ私の中で何かしらのバランスが崩れている。


「パズルのピースを埋めればいいのか?」


 ジェーン・ドゥは答えない。


「パズルのピースが埋まっている人間なんていない。完璧な人間なんてつまらないだろう。私はプライドを取り戻せた。それで十分じゃないか」


 ジェーン・ドゥは答えない。というより、答えようがなかったのかもしれない。私の言い分があまりにも正論だから。

 だが、ジェーン・ドゥが言わんとしていることも理解できる。幸せのより高次元を求め続けるように、パズルのピースを完全に埋めたがるのもわかる。

 ジェーン・ドゥは幽霊のような存在でありながら、私よりも人間的であった。


「正直、私も悩んでいる。この環境はあまりにも私には合っていない。生きづらい街だ。死ぬまでここにいるつもりもない。いつか旅に出なければ」


 自ずと答えが出た。

 そうだ、いつまでもこの街にいてはならない。いくらパズルのピースを埋めようがこの街にいたらいつかは壊れてしまう。

 私はジェーン・ドゥの忠告を胸にしまった。


「ありがとう。君はやはり私を導く救世主だ。私とは違うのかもしれない」


 目が覚めた。

 不思議と穏やかな気持ちだった。こんな気持ちで朝を迎えたのは久しぶりだ。倦怠感と共に起きていたのがまるで嘘のようだ。

 珍しく腹が減っていた。

 私はキッチンに立ち、とっくに賞味期限の切れた食パンを焼いた。バターを多めに塗り、まんべんなく蜂蜜をかけた。料理をしたのも久しぶりだった。

 からからに渇いた喉を栄養ドリンクで潤し、ハニートーストを一口齧る。

 プライドを失ったことで私はいくつのピースを失っていたのだろう。プライドを取り戻したことでいくつのピースを取り戻したことだろう。きっと、私が埋めていたピースはほとんど取り戻した。

 パズルのピースを埋めたら生きていてよかったと思えるのだろうか。パズルのピースを埋めてもなお空虚なままだろうか。

 充実と空虚はコインの表と裏の関係だ。私は満たされているが、中身を凝視したらすっからかんだ。充実しているように見える人間ほど空虚で、空虚に見える人間ほど充実している。充実と空虚という言葉は偏見によって生まれたようなものだ。

 パソコンを開く。

 さて、今日は何を書こうか。

 私は止まった。

 私の脳内の引き出しは既に空だった。

 そうだ、だから私は創作をやめて自らの人生を執筆するようになったのだ。私はプライドから逃げた。己を正当化して逃げた。

 私は逃げ続けていた。ジェーン・ドゥはそのことを思い出させてくれた。

 私は卑劣だ。きっとジェーン・ドゥは私を見過ごせなかったのだろう。いい意味でも、悪い意味でも。

 私はさっさと支度を済ませて家をでた。

 引き出しにものを詰め込まなければ小説は書けない。小さな引き出しに小さな宝石を入れよう。小さくてもいい。ないよりは幾分かましだ。

 私は歩いた。家を出るまではどこに行くか決めていなかったが、外に出た途端行きたい場所ができた。

 プライドを失う前、よく立ち寄っていたカフェがある。ビルの二階にひっそりとある小さなカフェだ。

 片手で押すには少し重いドアを開けると、コーヒー豆の古くさい匂いが鼻腔を突いた。

 このカフェ特有の匂いだ。家具、床、天井に染みついたコーヒー豆の匂いが熟成して乾いた匂いになり、さらに挽きたてのコーヒー豆の匂いが合わさっている。それでいて不協和だ。

 私は店内を見渡せる端のテーブル席に座った。

 私のほかに客はいなかった。夫婦で経営しているこのカフェは相変わらず静かで居心地がよかった。

 行きつけというほどではなかったが、メニューにあるコーヒーは全て飲んだことがあると思う。確か、ヨーロピアンブレンドが美味しかったはずだ。

 私はヨーロピアンブレンドのコーヒーとニューヨークチーズケーキを注文した。ハニートーストを食べてきたばかりだが、コーヒーを飲むなら甘いものが必要だ。

 間もなくして注文したものが運ばれてきた。そのタイミングでゆっくりとドアの軋む音がした。

 ドアを開けたのは女だった。黒髪と白いワンピースがジェーン・ドゥを彷彿とさせた。

 私は女の顔をまじまじと見つめた。が、ぼやけてあまりよく見えなかった。

 視力が悪いのが運の尽きか。目を見開いても細めても見えやしない。

 私は諦めてコーヒーを啜った。

 どうやら女はここの常連らしい。何も注文されずともマスターがコーヒーを淹れたからだ。

 女のコーヒーが何なのかは知る由もなかったが、一緒にガトーショコラが出された。

 女はガトーショコラを小さく切ってフォークで口へと運び、音一つ立てずにコーヒーを一口含んだ。それから、バッグの中からカバーつきの小説を取り出して読書を始めた。

 なるほど、カフェで読書とはいい趣味だ。それなら私はここで執筆をしよう。生憎パソコンはないが、脳内の白紙は無尽蔵にある。

 私はこの女について執筆することにした。とはいっても、短編にするにしてはいささか文字数が足らない。私はこの女の内面を何も知らないからだ。外面の特徴と妄想を小説にするのみではつまらない。どうせ書いているうちに飽きてしまうだろう。掌握小説くらいがちょうどいい。

 女の特徴を挙げてみる。

 黒髪は肩口まで伸ばされており、よく手入れされていることが見受けられる。

 肌は病的なまでに白い。ドアの手前の傘立てに黒い日傘があることから、肌には気を遣っているのだろう。

 ワンピースは涼しげな薄い生地で、丈は膝よりも下まである。露出は好まないらしい。

 ジェーン・ドゥが実在するとしたらこんな感じだろうか。

 名も知らぬ女。私にとってこの女はジェーン・ドゥだ。この女にとって私はジョン・ドゥだ。

 名無しはユビキタスだ。いつでも現れる。どこでも現れる。誰にでもなり得る。

 私はコーヒーを半分まで飲み、ブルーベリーソースがかけられたニューヨークチーズケーキに手をつけた。

 女が小説から視線を上げることはなかった。細い枝のような指でコーヒーカップを持ち上げるものの、視線は一点に釘付けだった。

 私は席を立った。

 女と目が合った。

 女は微笑み、小さく会釈をした。私はわずかに首を動かして会釈を返した。

 何か言いたかった。何か言わなければならないような気がした。が、私は何も言うことなくカフェを後にした。

 後悔はなかった。

 ジェーン・ドゥと言葉を交わす必要はない。目が合った瞬間、何年分も言葉を交わしたようなものだ。それ以上ジェーン・ドゥのことを知る必要はない。

 家に帰り、私はカフェで出会った女を描いた掌握小説の執筆に取りかかった。

 装飾過多。もはや原形を留めていない。

 実際の女は決して不細工ではなかったが、その何倍も美化した。私と女はカフェで巡り会い、たった一言交わして恋に落ちた。結婚し、田舎に家を建てて死ぬまでそこで暮らした。

 書き終わり、私はいら立ちに駆られた。

 こんなもの、小説ではない。単なる私の妄想に過ぎない。

 私はこの小説のデータをごみ箱に捨てた。

 だが、現実というものは陳腐な妄想よりもつまらない。現実を執筆するよりは妄想を創作した方がましだ。

 今日は疲れた。もう眠ろう。

 私はパソコンを閉じ、ベッドの上に身を投げ出した。

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