顔のないジェーン・ドゥ6

 瞼を開く。

 違和感。何かが足りない。

 まだまともに思考の働かない頭で違和感を模索する。

 思い当たった。

 夢を見ていない。眠るたびに見ていた夢を覚えていない。ジェーン・ドゥと会っていない。

 さらに思い当たった。

 私がプライドを取り戻したからジェーン・ドゥは現れなかったのではないか。彼女は最後に「お帰り」と言った。意味深長な「お帰り」が私の想像通りだとしたら。彼女は私を幸せへと導く救世主だったということになる。

 ジェーン・ドゥを救世主として送り込んだのは他でもない私だ。が、ここに存在している私とはまた異なる私だ。もう一人の私、言うなればハート型の薄い殻の中に閉じ籠った小さな私。私は私を救うためにジェーン・ドゥという名のもう一人の私を生み出した。

 少なくとも、この間に私は三人出てきた。もしかしたら、もっといるのかもしれない。

 私という存在が不安定な時、他の私が私を支えなければならない。すなわち、何かしらの細工をしてバランスを取らなければならない。

 歯車で例えよう。私は一つの歯車、いや、風車でいい。風車は風が吹けば自然と回る。が、風が吹かなければ回らなくなってしまう。そこで、他の歯車をいくつか組み込んでもう一度回るように仕向ける。ただし、これらの歯車は本来あってはならないものだ。風車の回転が安定すればいずれ邪魔になる。

 ジェーン・ドゥはこの歯車の一つだったということになる。私はプライドを取り戻し、歯車が邪魔になった。現在、バランスは保たれている。私は一人だ。

 しかし、私はジェーン・ドゥに恋をしてしまっていた。

 異常な恋。一種のナルシズム。私は透明な美貌に惚れてしまった。

 ジェーン・ドゥと再会するのは簡単だ。ジェーン・ドゥの正体がわかってしまえばどうということもない。また創作をやめればいいのだ。

 とはいえ、これでは本末転倒だ。ジェーン・ドゥとの再会を望めば別の歪みが生じ、やがて歯車が必要になる。またジェーン・ドゥという歯車が組み込まれるかどうかはわからない。もう二度と彼女と再会できないかもしれない。そうなれば、私は死ぬまで歪んだままになってしまう。

「お帰り」は「さよなら」だったのかもしれない。私が呟くべきだったのは「行かないでくれ」だったのかもしれない。

 ジェーン・ドゥ、君は私を翻弄した。ひどい女だ。私にあるはずのなかった初恋を体験させておきながらどこかに行ってしまうなんて。

 ジェーン・ドゥと再会するために創作をやめるのはリスクが高い。下手をすれば私が壊れてしまう。ただでさえひび割れているガラスが砕け散ってしまう。

 私は発想を転換させた。

 ジェーン・ドゥの目的が私を変えることだったなら、もっと変わってしまえ。プライドを失う前の私に限りなく近付けてしまえ。

 なんの根拠もない思いつきだった。リスクなくしてジェーン・ドゥと再会するにはこの方法しかなかった。

 私は着替えた。そして、外に出た。

 久しく味わう外の空気、照りつける日光。思っていたよりもいいものではなかった。排気ガスが鼻につく。眩しすぎてまともに目を開けていられない。

 私は自動車に乗り込み、行くあてもなくハンドルを握った。

 しばらく進んだところで、行き先を決定した。

 田舎。どこか遠く離れた田舎に行こう。どこでもいい、空気の美味しい穏やかな場所に行こう。

 私は街から逃げるようにアクセルを踏んでスピードを上げた。道路の自動車が疎らになってくるとさらにスピードを上げ、音楽をかけた。

 ジョージ・ベンソンの「ギブ・ミー・ザ・ナイト」。この風景と時間帯には似合わない倒錯的な曲だったが、私の気分はハイになっていた。

 私は倒錯的な人間だ。倒錯的に生きることを好んできた。ジェーン・ドゥが生まれたのも倒錯的なことだったのかもしれない。

 自動車どころか建物も疎らになってきた。いよいよ田舎に入り、私は窓を全開にした。

 涼しい風が蒸し暑い車内を冷やしてくれた。深呼吸すると、凝り固まっていた肺が浄化されるかのようだった。

 そよ風に波打つ青々とした稲。日光を照り返す赤茶色の屋根瓦。耳を澄ませばやかましい蝉の声に混じって微かに聞こえる川のせせらぎ。

 外の世界とはこんなにも素晴らしいものだっただろうか。まるで理想郷シャングリラだ。

 車窓から眺める景色にはどこか生活感があった。決して人間が多いわけでもなく人間の手がべたべたと加えられたわけでもないのに、羨ましいほどに充実した生活感があった。

 狭い畦道のような道路を走っていると、奥まった場所に階段を見つけた。形の悪い石でできた階段で、その上の方にはこれまた形のよくない石製の鳥居がちらりと見えた。

 私は階段の前で自動車を停めた。自動車から降りて見上げると、なんだか不思議な気分になった。

 木々がドーム状になって日光を遮っている。一段と空気が美味しい。シャツと身体の間に入り込んでくる風が妙に涼しい。

 不意に、ここが環境を最適化したビニールハウスの中だという錯覚に陥った。自然の中だというのに、人工的なものに例えてしまった。なんとも拙い表現だ。

 それでも私は全てを文字で表現する執筆という行為に誇りを持っている。私は倒錯的な人間だ。

 神社を訪れるのはいつぶりだろうか。プライドを失う前はよく足を運んだものだった。神社を見つけては参拝して執筆の糧にすることもあった。

 私は一段一段が高い階段を上り、途中で足を止めた。まだ半分までしか上っていないというのに、脚が痺れるようだ。

 石段に座り、乱れた呼吸を整える。

 見下ろすと、案外高くまで上ってきていた。自動車が少し小さく見えた。

 やはり神社は現実とは世界が違う。独特な雰囲気があるというのだろうか、鳥居をくぐった瞬間から空気ががらりと変わる。家の空気でもない、街の空気でもない、田舎の空気でもない。神社の空気。

 私は幽霊や魂の存在を信じる。何故なら、実際にこの目で見たことがあるからだ。この目で見たものは信じるに値する。あの少女の幽霊は私の記憶に鮮烈に残っている。彼女がいなかったら、私が神社を好きになることはなかっただろう。

 私は意地になって使わなかった手すりに頼り、歩みを再開した。

 額に汗が滲む。呼吸が壊れたメトロノームのごとく弾む。

 階段を上り切った。

 膝に両手をついて見下ろすと、斜めに傾いたトンネルの遥か下の方に自動車があった。見上げた時にはわからなかったが、随分と高いところまで階段は続いていた。

 呼吸が落ち着き、私は老朽化した手水舎へと歩みを進めた。

 ずんぐりと丸っこい形状の手水鉢にはびっしりと苔が生えており、溢れた水が表面を伝って苔を湿らせていた。苔を育てる植木鉢のようなものだった。

 手水舎のそばには自然とできた水路があり、そこから手水鉢に水を送っているようだった。龍の口から吐き出される水はどす黒く染まっているように見えた。

 柄杓を手に取り、もう片方の手のひらにゆっくりとかける。血管が瞬間的に縮み、骨の芯まですっと冷えるのがわかる。

 簡単な禊を済ませて拝殿の前に立つ。ポケットの財布を出し、その中の十円玉を賽銭箱に投げ入れる。

 金属と木のぶつかり合う重い音がした。ほとんど賽銭が入っていないのだろう。田舎の寂れた神社はどこもこんなものだ。

 二礼、二拍手、一礼。神など信じないが、神社に対してはきちんと礼儀を払う。プライドある私の礼儀を。

 私は石段に腰かけた。

 木々のドームの先には田舎の景色がどこまでも広がっているはずだ。街よりも自然と寄り添って生活している人間がいる。街は窮屈だ。この広大な田舎で暮らせば心も豊かになるだろうか。

 ここには誰もいない。孤独という概念も存在しない。ここで創作をすればパズルのピースは埋まる。

 田舎で暮らす。これは子供の頃からの夢だった。都会に出たのが間違いだった。街が悪いとは言わない。私には合わなかったのだ。

 私は石段を下りて自動車に戻った。

 このまま帰ってしまうのもなんだかもったいない。家に帰ってもどうせすることは一つに限られている。たまにはさっぱり気晴らしをしなければ書けるものも書けない。

 そうだ、海に行こう。

 ふと思い立ち、私は再び自動車を走らせた。

 山を下るとすぐに潮の匂いがした。どうやら海が近いらしい。

 海岸沿いの道路に出た。

 窓を全開にする。

 どこまでも続く水平線を目で追いながら潮の香りを嗅いでいると、懐かしさから涙がこぼれた。

 いつからだろう、海を見なくなったのは。都会に引っ越して以来、めっきり海から離れてしまった。

 音楽をかけた。セルゲイ・マンティスの「シー・ブリーズ」。この曲を聞きながら砂浜を歩いたらさぞ気持ちいいだろうが、もう満足だった。こうして海を見られたのだ、これで心置きなく家に帰れる。

 運転中、眠気に襲われた。途中でコンビニに寄って缶コーヒーを買い、眠気を覚まして運転を再開した。

 ビルが連なってきた。現代の余計なアート性を強調した装飾が気に入らない。田舎と海を見た後だと余計にそう感じる。

 家に帰ると疲労がどっと押し寄せてきた。体力のない身体で一日外にいたせいだ。

 既にジェーン・ドゥのことは頭になかった。ただ眠りたかった。

 私はベッドに横たわり、目を瞑るとそのまま眠りという名の崖から滑落した。

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