顔のないジェーン・ドゥ5

 夢の中で私とジェーン・ドゥは対峙した。

 ジェーン・ドゥはすすり泣いていた。うずくまって小さな両手で顔面を覆い隠していた。

 いつもより靄が薄いような気がした。それでも顔が見えることはなかった。ジェーン・ドゥは頑なに顔を見せてくれなかった。

 うずくまったジェーン・ドゥに殺意など微塵もなかった。ただひたすらにか弱く、虫も殺せないような女であった。

 なんだか申しわけなくなった。創作とはいえ、ジェーン・ドゥを殺人者に仕立ててしまった。己を殺させ、さらには私を間接的に殺させてしまった。

 私はただ黙って待った。

 何時間が経っただろうか。ジェーン・ドゥは一向に泣き止まなかった。

 さすがにこのままでは話にならないので、私はジェーン・ドゥを慰めることにした。

 静かに嗚咽を漏らす女のそばに歩み寄る。しゃがみ込み、彼女の肩に手を伸ばす。

 私の手が華奢な肩に届くか届かないかというところだった。ジェーン・ドゥが顔を上げて私はぴたりと動きを止めた。

 無論、顔には靄がかかっていてよく見えなかったが、私にはジェーン・ドゥが笑顔を浮かべているように感じられた。


「お帰り」


 目が覚めた。

 天井を見つめている。仰向けになっている。

 私は上半身を起こし、部屋の中を見回した。当然ながらジェーン・ドゥはいない。

 目元が濡れていた。どうやら眠っている間に涙が流れていたらしい。

 ジェーン・ドゥは笑いながら「お帰り」と言った。どういう意味だ。私がどこから帰ってきたというのだろう。

 なんとなく思い浮かぶとすれば、プライドなき世界からの帰還。私はミステリー小説もどきを執筆した。私にとって創作こそがプライド。創作することで一度は捨てたプライドを取り戻した。

 パズルのピースを一つ埋め直した私に対しての「お帰り」だったのではないか。ジェーン・ドゥの涙は嬉し泣きによるものだったのではないか。


「ただいま」


 私はぽつりと呟いた。

 帰ってきた。本当の私が帰ってきた。まだ取り戻せる。ずたずたに引き裂かれたプライドを、ばらばらになったパズルのピースを。

 手の甲で涙を拭い、私は椅子に腰を下ろした。

 この日、私は書きたいものをひたすら書き連ねた。ブランクに色をつけるような作業だった。

 執筆とはこんなにも満たされたものだっただろうか。淡々と自らの人生を執筆するのとは全く違う。一文字書くたびにパズルのピースが満たされていく。今日、これまでの満たされた幸せを超えた。より高次元の幸せ。恐らくこれ以上の幸せはない。もう死んでもいい。ここから先、不幸になるばかりだろうから。

 幸せな時間はごく短い。不幸になる前に幸せを楽しめばいい。幸せに損はない。幸せとは案外もたらされるものだ。自ら掴み取るにはあまりにも馬鹿馬鹿しい。その努力自体が不幸の種であり、自然ともたらされてこそ得られる幸せの方が多い。

 満たされた私は心地よい疲労に身を委ねて眠った。電車に揺られながらうたた寝する感覚に似ていた。

 そういえば、当分電車に乗っていない。

 そんなことを思いながら、私の意識はそのまま暗闇の中へと落ちていった。

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