顔のないジェーン・ドゥ4

 私のささやかな願いは案外すぐに叶った。

 ジェーン・ドゥの夢を見たその夜、彼女はまた夢の中に現れてくれた。実体のない彼女はやはりぼんやりしていて、はっきりと見えているはずなのに顔は見えなかった。

 ジェーン・ドゥは無言のままでいた。私は彼女に話しかけたかったが、彼女から無言を返されるのが怖くて私も無言のままでいた。

 ジェーン・ドゥ。私はそう名付けたが、彼女は紛れもなく日本人だ。ただ、花子と名付けるにはもったいない存在だった。

 夢の中で私たちは何時間も見つめ合っていたことになるが、体感的にはごく短い時間だった。たったの一分くらい。それほどまでに短く感じられた。

 ジェーン・ドゥにかかる靄がより濃くなり、私は口を開いた。声を発しようとした途端、意識が夢の中から追放された。

 やはり話しかけてはいけなかったか。

 ジェーン・ドゥは私との会話を拒絶した。少なくとも、私との会話が目的ではないことが明らかになった。では、彼女が私に望んでいることはなんだろう。

 頭の中はもやもやしていたが、何故だか気分はすっきりしていた。時間的にはまだ朝だ。二度寝するほど眠気もなく、私は顔を洗って冷蔵庫から栄養ドリンクの小瓶を取り、パソコンの前に座った。

 ジェーン・ドゥについての執筆は捗った。小説形式で彼女のことを綴ったが、脚色は一切しなかった。彼女はありのままで表現したかった。

 私はジェーン・ドゥにある種の美貌を感じていた。不思議なものだ。見えないものが美しく感じられる。容貌でも容姿でもなく、私は彼女の純粋な雰囲気に惹かれていた。

 ジェーン・ドゥ、君が愛しい。もう一度会いたい。また夢の中に現れてくれるだろうか。君と一緒にいられるのなら永遠に夢の中に閉じ込められたって構わない。君がいれば私はもう孤独ではない。

 ジェーン・ドゥも孤独な存在だ。彼女は夢の中で独りぼっち、私以外の人間を知らない。私と同じように他人の体温を知らない。

 だが、孤独な者が二人になれば孤独ではなくなる。夢の中で私たちは結ばれる。私たちにとって、きっとこれから毎日が七夕になる。そうなってほしい。

 椅子に座ったまま、いつの間にか私は眠りに落ちていた。

 案の定、ジェーン・ドゥは私の前に現れた。無言のまま見つめ合う長時間。その間、私は顔のない彼女に見惚れていた。

 ジェーン・ドゥは私との会話を望んでいない。それならば私とこうして見つめ合うことが望みなのか。いや、もっと他に理由があるはずだ。

 ジェーン・ドゥは実在しない。仮に私が無意識のうちに作り出した存在だったとして、私の心的要因が何かしら関わっているはずだ。

 ジェーン・ドゥは私だ。私の隠された核たる部分だ。私も知らない裏の部分。すなわち、彼女は私の本心だ。

 ジェーン・ドゥが何も話さないのは、彼女が私だからだ。私は無口だ。無口が私を孤独にし、孤独が私を無口にした。彼女もまたそうだった。

 私はジェーン・ドゥという名の鏡を見ていた。映っているのは私。私は虚像に見惚れるナルシストだ。

 もしかしたら、中学時代に見たあの少女も私だったのかもしれない。正確には友人の後ろ姿だったわけだが、窓や鏡は己を映し出すものだ。私自身を垣間見たということも否めない。

 しかし、このまま私と向き合い続けていても埒が明かない。何かヒントが得られなければジェーン・ドゥの望みもわからない。私は彼女の願いを――私の願いを叶えてやりたい。

 私はもう一人の私に話しかけてみることにした。たとえ声を発したら夢から覚めてしまうのだとしても構わない。

 相手が私だと思うと気が楽だった。無言を返されても平気でいられるような気がした。


「ジェーン・ドゥ」


 反応はなかった。何も返ってこない。唯一返ってきたのは無言。わかってはいたが、ひやりとした。

 だが、ジェーン・ドゥは微笑んでいた。正確には微笑んでいるような気がした。靄がかかっている表情にわずかな変化があったのを私は見逃さなかった。

 悪戯な微笑。私の心はその虜になった。

 私の手はジェーン・ドゥを求めて真っ直ぐ伸びた。が、指先が彼女に触れることは叶わなかった。

 静謐が充満した部屋。夢の中とは対照的に雑多な部屋。夢の中が天国ならここは地獄だ。私はうんざりした。

 ジェーン・ドゥはまた私を拒絶した。私はマゾヒズムを刺激する嗜虐的な微笑みを思い返した。

 ジェーン・ドゥ、君が受け入れてくれるまで私は眠り続けよう。このくだらない世界はもう飽きた。すぐに君のところまで行こう。

 私は意気込んで瞼を閉じたが、残念ながら意識が夢の世界に誘われることはなかった。

 少しでもこの世界にいる時間を削りたい。時間が惜しい。

 死んだらあの世界に行けるのだろうか、と思った。ふと死がちらついた。本当の私は死を望んでいるのかもしれない、と思った。

 それなら、ジェーン・ドゥは私を死へと誘う死神。もう一人の私――ジェーン・ドゥ。

 そんなに私を殺したいのなら殺してみろ。私の前に、この世界に現れて殺してみろ。首を絞めるなり包丁で刺すなりして殺せ。君が現れたら私は喜んで死を受け入れよう。

 わかり切っていたことだが、私は死を怖れていた。私の中でジェーン・ドゥがナイフを持った狂気的な女としてイメージされた。

 やけに気怠い。起きているのも面倒くさい。まつ毛に錘でもついているかのようだ。

 はっとした。ジェーン・ドゥが私を殺そうとしている。

 私は冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出し、一気に飲み干した。

 目が冴える。まつ毛の錘が消える。念のため冷水で顔をたたき、パソコンを開く。

 私は「ジェーン・ドゥ」のファイルをクリックし、文章を読み返してみた。

 ここには事実しか書かれていない。多少の脚色はあれど、これは小説ではない。つまらない。

 ジェーン・ドゥを殺人者としてミステリー小説を書くのはどうだろうか。私は被害者。ジェーン・ドゥに怯えて部屋から出ることもできない。ろくに眠ることもできない。まどろんでくるとドアをたたかれる。いつ殺されるかわからない。

 さあ、創作を再開しよう。小説家気取りに戻る時だ。

 結局、私は一睡もせずに一夜を明かした。閉め切ったカーテンの隙間から光が漏れてきてようやく朝だと気付いた。

 ひとまずジェーン・ドゥのミステリー小説を書き上げた。短編だが、一夜で小説を完成させたのは初めてだ。

 内容はあまり凝ったものではない。主人公は私、ジェーン・ドゥは私の元恋人。彼女は別れた私に殺意を抱き、毎日のように家を訪ねてくる。私が無視してドアを開けなくなると、悪質な嫌がらせが始まる。嫌がらせは日に日にエスカレートし、私は部屋の中で布団をかぶって震えながら過ごす。最終的には彼女が部屋の中に入ってきてしまう。そして、何も語らず握っていたナイフで自らの喉を掻き切る。彼女が死んだ日から私はひどい鬱になり、ついには彼女と同じように自殺してしまう。これで終わりだ。

 私は思わず苦笑した。

 これはミステリー小説ではないな。トリックもくそもない。どちらかといえばホラー小説か。バッドエンド極まりない。陳腐な話だ。

 インスタントコーヒーで一息吐くと、猛烈な睡魔が襲ってきた。

 ジェーン・ドゥの殺意が迫る。鈍足な私では到底逃げ切れるはずもなく。

 私は意識を失うように眠った。

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