顔のないジェーン・ドゥ3
久しぶりにこんな鮮明な夢を見た気がする。
私はベッドの上に仰向けになったまま呆然としていた。
鮮明な夢だったが、とても前世とは思えない夢だった。
そこは何もない空間だった。無の空間。私はそこで一人の女と対面していた。何をするわけでもなく、何をしゃべるわけでもなく、ただそこに立って女と見つめ合っていた。
女には顔がなかった。といっても、のっぺらぼうというわけではなく、うっすらとモザイクのような靄がかかっていた。それが彼女の顔であるかのように、いつまで経っても靄が晴れることはなかった。
不気味だとは感じなかった。むしろ、神秘的ですらあった。
目覚めた瞬間、私は初めて幽霊を見た時のことを思い出した。これはその時の感覚に似ていた。
山の上の中学校に入学して早々、オリエンテーションとして校舎に泊まるという行事があった。夜になると、生徒全員で肝試しをすることになった。私は驚かせる側になり、友人と共に理科室のカーテンの後ろに隠れていた。
理科室は一階にあり、窓の外は駐車場が近かった。ちらほらと自動車で帰っていく教師を見送りながら、私はぼーっとしていた。
自動車の光が窓を照らし、私の顔がガラスに反射する。その時、私はある違和感に気付いた。
友人の後ろ姿。ガラスに反射した友人の後ろ姿がどこかおかしい。
私ははっとした。違う。友人の後ろ姿ではない。少女だ。
友人の後ろ姿は明らかに少女のもので、髪は腰の辺りまで伸びて制服もどこか別の中学校のセーラー服だった。わずかに艶の残った黒髪、小綺麗なセーラー服。彼女が幽霊であると認識するのに少し時間がかかった。
少女は窓の中で生きている。彼女は死んでいる。それなのに、こんなにも美しい。
私はなんだか悲しくなった。同時に、無意識下に沈んでいた恐怖心が湧き上がってきた。
心なしか、少女の首が微かに回ったような気がした。なんとなく、彼女の顔が見えそうな気がした。本能的に彼女の顔を見てはいけないという気がした。彼女と目が合ったら石のように固まってしまうような気がした。窓の裏側でメデューサの瞳が爛々と光っているような気がした。
私は窓のそばから足早に離れた。すぐさま振り返ると、もうそこに少女はいなかった。ただ友人の後ろ姿が反射しているのみであった。
あれから何年も経ったが、今でも少女のことが忘れられない。私は彼女に取り憑かれてしまった。
今になって思う。あの少女は何故私の前に現れたのだろう。私に何を伝えたかったのだろう。ただの悪戯だろうか。
何年経っても答えは出ない。本人に会わなければ答えは出ない。今となっては知りようのない答えだ。
話を戻そう。私は夢の中に現れた女が気になっていた。中学時代に見た少女の記憶が根付いているせいか、その日は何も手につかなかった。
恋をするとこんな感じなのだろうか、と思った。
現在に至るまで、私は一度も恋をしたことがない。人間嫌いが恋という感情の邪魔をした。
私にはいくつか感情が欠落していると思う。人間嫌いと孤独が感情の成長を妨げた。恋愛感情は元からなかったのかもしれない。人間に惹かれたことがないこの人生、退屈この上ない人生。もし恋愛感情があったら、プライドがここまで増長することもなかったのかもしれない。
私は女の容姿を思い出そうとした。が、それはできなかった。顔に靄がかかっていたように、彼女の全身像もどこかぼんやりしていた。
見ているのに、見えているのに見えない。そんな感覚だった。
なんとなく女の特徴を挙げるとしたら、彼女はなんだか純粋な印象だった。色で言えば白、透き通るような白。白い肌だったような気がする。白いワンピースを着ていたような気がする。黒髪は……窓の中の少女に似ていたような気がする。
あの女は全てにおいてはっきりしなかった。まるで私のようだった。
私はベッドから飛び起き、パソコンを開いた。あの女のことについて執筆したくなった。
執筆は捗った。書きたいことは書き尽くした。これでひとまずあの女は形となった。
だが、どうにも気がかりは晴れなかった。
あの女に会いたがっている私がいる。彼女にもう一度会いたい。もう一度会えたなら……いや、他には何も望まない。彼女に会えたらそれでいい。ただ黙って見つめ合えればいい。
あの女と呼ぶにはあまりにもよそよそしすぎる。私と彼女はもう他人の関係ではない。
私は名もなき女をジェーン・ドゥと名付けた。ジェーン・ドゥは、いわゆる名なしの権兵衛だ。ジョン・ドゥの女性版。だからジェーン・ドゥ。
ジェーン・ドゥ、もう一度君に会いたい。また夢の中に現れてはくれまいか。
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