顔のないジェーン・ドゥ2

 昼になり、私はようやく目を覚ました。

 最近、あまり夢を見ない。見る日もないわけではないが、どうもぼんやりしていて不鮮明だ。

 私は欠伸と共にベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗った。

 少し目が冴えて、冷蔵庫に向かう。栄養ドリンクの小瓶を引っ掴み、デスクに着く。握力の不十分な手で栄養ドリンクの蓋をなんとか回し、喉にしみる液体を少しずつ飲む。

 私はパソコンを起動した。

 さあ、私の一日が始まった。半日寝てもまだ眠い。それでも起きていなければならない。起きていないと生きていることにはならない。睡眠中、私は死んでいることと同じだと思う。

 私がパソコンを起動したのは何故か。それは、なくしたプライドを取り戻すためだ。

 私はプライドなき仕事をしている。現在もその仕事を続けてはいるが、正直くだらない。所詮は金のためにやっている仕事に過ぎない。そんな仕事にプライドなどあろうか。

 私にとって小説家というものは、いや、私は小説家ではないから執筆という行為と言い換えることにしよう。私にとって執筆という行為はプライドあることだった。執筆の中でも創作こそが至高のプライド。創作することで生活できればそれは幸せというものだろう。

 だが、小説家とは稼げないものだ。小説家ですらない私はなおさらだ。執筆で創作をしたところで一銭の価値もない。無職と同じだ。

 私はプライドを捨てざるを得なかった。金のための仕事。己のための仕事。プライドなき人生など生きる価値もない。

 それでも私は幸せの幻影を追い続けている。私は生きている。どの角度から見ても私はちゃんと生きている。パソコンを起動するたびにそう思い知らされる。

 プライドを捨ててから、私は創作することをやめた。私には創作の才能がなかったし、いい加減諦めなければならなかった。

 とはいえ、執筆をやめることはできなかった。私にはこれしかなかった。執筆することでこの空虚な心の中を満たすより他なかった。

 私にとって執筆こそが恋人だった。いや、もはや伴侶と言っても過言ではない。私の一部という表現も悪くない。私の中になくてはならないもの、それが執筆だ。

 私から執筆を抜いたら私は瓦解してしまう。まるでジェンガのようだ。

 プライドを捨ててから、私は自らの人生を執筆するようになった。これは人生を見つめ直すいい機会になった。そして、私が生に執着しなくなった理由がなんとなく理解できた。

 結論から言うと、私が生に執着しなくなったのは満たされていたからだ。私の人生には何一つとして不自由がなかった。それゆえにプライドの芽生える余地があった。

 私は芽生えたプライドを自らの手で刈り取った。そうしておいて、私は枯れゆく小さなそれを大切に手の中に隠し持っている。

 私は死を望んではいないが、生も望んでいない。私が望んでいるのはプライドの奪還。自ら捨てたプライドを取り戻すことだ。

 だから、いつか全てを捨てて旅に出てやろうと思う。生も死も考えず、プライドのために余生を過ごす。行くあてはない。あってはならない。これが私の望みだ。

 私はぬるくなった栄養ドリンクを飲み干した。

 私は幸せだな――ふとそう思った。

 満たされて死ねる。たとえプライドを棺桶に持っていけなくても、捨てたからいいと言って逃げられる。

 人間という生き物は幸せを求め続ける。幸せにはいくつも段階があり、満たされると次の段階の幸せを求める。幸せには個性がある。人間によってそれぞれ幸せの形は異なり、いつか辿り着く最終的な幸せも異なる。

 では、最終的な幸せに辿り着いた者はどうなるのか。これはあくまで私の考えだが、最終的な幸せを享受した者は不幸になる。

 普通、人間は多少の幸せくらいでは満たされない。そういうものだ。だから私は幸せなのだ。

 私は現在をただ生きている。言葉通り、ただ生きている。未来など見据えていない。どうでもいい。過去にも価値はない。重要なのは現在であり、その現在さえもどうでもよくなってしまった。私はただ生きている。

 一通り己の人生について振り返り、私はパソコンを閉じた。

 ベッドの上に寝転がり、瞼を閉じる。くだらない思考の糸が絡まり合い、やがて思考が停滞する。

 私は夢の中に落ちた。

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