顔のないジェーン・ドゥ

姐三

顔のないジェーン・ドゥ1

 プライドなき人生など生きる価値もない。

 私はそう思う。最近、そう思うようになった。

 いつしか私はプライドというものを失っていた。だからなのかもしれない。

 だが、元来、私はプライドの塊のような人間だった。病的なまでのこだわりを持ち、いつでも私なりの孤高を貫いていた。

 私はいつだって曲がらなかった。曲がることが嫌いだった。

 プライドを失ってからも私は曲がらなかった。こだわりと孤高は変わらなかった。いや、この表現に語弊があるかもしれない。現在の私にあるのは執着と孤独だからだ。

 さて、私がプライドを失った理由について少し話そう。私にとってもこの理由はひどく曖昧なものではあるが、話しているうちに答えが出るかもしれない。

 私がプライドを失ったのは、恐らく最近のことだと思う。正確には、最近になってそれを認知した。

 言うなれば、私のプライドというものはパズルだ。既に完成されたパズル。そのピースがばらばらと一つずつ欠け落ちていって現在に至る。現在の私のパズルは穴だらけだ。風が吹けばひゅーひゅーと音がなるような、そんなみっともないものだ。

 私は自ら脆くなったパズルをたたき壊そうとしたが、それはできなかった。プライドの欠片がそれを許さなかった。

 私は曲がれない。プライドを失いたくないという最後のこだわりが私を執着させ、孤高でいたいという最後のこだわりが私を孤独にした。

 実際、プライドを失ったことによって私が失ったのは生きる気力だ。死は怖ろしくもあったが、脳裏の片隅には皆死ぬという常識がこびりついていた。

 プライドを失った。一言にこう言っても複数の意味がある。私の場合、それは執筆をやめるという形ではっきりと現れた。

 プライドを失う以前、私は小説家を志していたのだが、私には小説を書く才能というものが著しく欠けていることに気付いた。

 私は致命的なまでに人間が嫌いだ。人間と接することが苦痛で仕方ない。それが何故なのか何度も考えたことはある。きっと、人間の心の中が見え透いてしまうからだと思う。きっと、そんな私自身にも嫌悪感を抱いているのだと思う。

 いっそのこと、見えない方がよかった。見えない、というのは比喩でも誇張でもなく、人間の心の中というものは視覚的な情報だ。少なくとも、私は相手の機微から心の中を推測する。その推測は皮肉にも大体当たってしまう。

 人間嫌いにまともな小説が書けるはずがない。そんな邪念もあった。別に明確な根拠があるわけでもない。ただの思い込みで私はまともな小説が書けなくなっていった。

 執筆の自信を失い、やがてプライドを失った。プライドを失った理由は自信の喪失であったが、こんな単純な理由で生きる気力さえも失うだろうか。私はせいぜいそのくらいで死を望むような人間ではない。ここには他の要因があるような気がしてならないのだ。

 まだ答えは出ていない。いや、まだ出してはならない。出してなるものか。この答えこそが私の人生。答えが出た時点で私の人生は終わる。そんな気がする。

 思うに、孤独も要因の一つなのではないか。人間嫌いも相まって、私は長らく孤独な時を過ごした。もはや孤独にも慣れた。

 もっと言えば、孤独な人間が生きている価値などあるだろうか。何を求めて生きるのだろうか。現に私は孤独のうちにプライドを失い、生きる意味さえも見失った。

 先ほど私はプライドを失ったくらいで死を望むような人間ではないと述べたが、何もメンタルが強いわけではない。むしろ、弱い。風になびくぺらぺらなガラスの花のごとく、儚く脆い。

 私のメンタルは睡眠中の夢に反映される。私は毎晩のように夢を見る。目覚めた瞬間、それがどんな夢だったかをほとんど記憶している。

 何度か鮮明な夢を見たことがある。リアリティのある夢。まるで実際に体験しているかのような夢。それらが前世なのではないかと思ったことさえある。現実とはかけ離れた、私のメンタルが反映されていない夢。もしこれらが本当に前世だとしたら。

 興味深い夢を二つほど紹介しよう。その夢を見てから随分と時が経ち、記憶も薄まったかもしれない。記憶に甘美な脚色もなされているかもしれない。まあ、それもいいだろう。私も一度小説家を志した身だ。物事を脚色することで満足感を得てきた。多少は脚色されている方が面白みが増していい。

 一つ目は、江戸時代の夢だった。その夢を見ている間、漠然とそこが長屋の一角にある家の玄関であること、私がしがない侍であることがわかっていた。そして、私は侍の私を俯瞰していた。死にゆく私の姿を。私は侍の私を俯瞰していたが、意識は侍の私の方にあった。

 誰に襲われたのかはわからない。何かで斬りつけられたのか、背中がじわりと焼けるように熱かった。

 夢の中ということも相まって、私は朦朧とする意識をなんとか繋いで玄関を見やった。玄関の戸は擦りガラスのようにうっすらと透けており、その先には何者かが立っていた。恐らく私を斬りつけた人物だろう。彼は何をするでもなく、玄関の戸の前でただじっとしていた。私の死を待つかのように。

 私は無性に悲しくなった。死を前にして、恐怖ではなく悲哀が私の感情を支配した。この時、私は人生で最も死というものを身近に感じた。例えるなら、親しい人間が死んだ時のような。己の死もそれと似た悲哀を感じた。人間の命とはなんと脆いものだろう、と思った。

 風前の灯火とはよく言ったものだ。私は死にかけている。あと何秒かすれば息絶える。

 走馬灯なるものは見えなかった。死を目前にしても、不思議と脳裏を過ぎる記憶は少なかった。これからどこに行くのだろう、というくだらない思考が飛び交うくらいで、これといった後悔は浮かび上がらなかった。

 私にとってこれは紛れもなく死だった。夢の中とはいえ、仮想的な死ではない。夢の中ではちゃんと意識があり、これから死ぬという痛いほどの実感があった。

 結局、侍の私の意識が途切れると同時に、私の意識は覚醒した。侍の私が死ぬと同時に現実の私が生まれたかのような、そんなおかしな感覚に苛まれた。だからこの夢の中の侍が私の前世なのだと思ったのかもしれない。

 二つ目の夢は、アフリカの僻地の夢だった。言うなればそこは軍隊に制圧されたスラム街。私はスナイパーライフルを背負い、細い路地裏を駆けていた。どうやら私は暗殺者のようだった。この夢での主観は暗殺者の私であった。俯瞰する私はいなかった。

 暗殺者の私は死に恐怖していた。兵士が蔓延るこの街で生き抜くことを考えていた。死んでなるものか、なんとしても生きてやる。その一心で私はひたすら走っていた。恐怖に興奮し、呼吸はひどく乱れていた。

 路地裏の曲がり角に差しかかり、私は死の恐怖と直面した。敵兵の足音だ。足音は二つ。重なり合う足音が私の恐怖をさらに煽った。

 私はハンドガンを握りしめた。現実では一度も触れたことのない代物だが、何故か馴染みのある感触に少し安心した。

 視界に人影が映った瞬間、私は発砲した。一人目が地面に崩れ落ち、その上を飛び越えてもう一度ハンドガンを構える。トリガーを引く。が、弾丸は発射されない。弾切れだ。致命的なミス。私は咄嗟に倒れ込みながら殺した兵士のアサルトライフルを拾い上げた。もう一人の兵士めがけて乱射し、やがて重々しい音がした。

 ここで場面が切り替わり、私はスナイパーライフルのスコープを覗いていた。スコープの十字の中心には一人の男がいた。ぼんやりと、その男が私のターゲットであることがわかった。この男を殺さなければならない。それはわかっていた。

 だが、私はいつまでもトリガーを引けないでいた。先ほど二人の兵士をあっさりと手にかけたというのに、私は迷っていた。あの男に何かあるのか。それはわからなかった。

 さらに場面が切り替わり、私は小さな用水路にかけられた橋の上を歩いていた。何故あの男を殺せなかったのか。そんな後悔に唇を噛みしめながら。

 涙で視界が白くぼやけ、意識がすーっと薄らいでいった。そして、現実にいる私の意識が覚醒した。一つ目に紹介した夢が終わる時のように、夢の中の私と現実の私の意識が切り替わった。

 この時、私はいつか見た『マトリックス』という映画を連想した。

 現実と夢は表裏一体なのかもしれない。どちらの私が本当の私なのか、それはわからない。現実は夢のようで、これらの夢は私にとってあまりにも鮮明で現実じみていた。

 孤独な世界で長く暮らしていると、現実が夢のように思えてくる。私は何故生きているのだろうという疑問が生じ、現実逃避の妄想に走る。そのうちに現実を見失う。私がどこにいるのかわからなくなってくる。

 誰か、私を導いてほしい。

 しかし、孤独な世界に私を導いてくれる救世主などいるはずもなく。

 今日も私は部屋に籠り、死と向き合いながら生きている。

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