灰の街

蓮見 葉

灰の街

 雨が降っていた。吹き荒れる風の間を縫い、打ち付けるように強い雨が、窓に当たって鳴いていた。

 その中にカチャカチャと触れ合う食器の音が妙に大きく響いた。

 僕は、姉を亡くした。事故であっさりと死んでしまった。大きな穴が空いたみたいだった。でもきっと僕よりも、この娘さんの方が、喪失感に駆られていると思う。姉の、娘さん。つまり僕の姪にあたる。彼女からしたら僕は叔父だ。けれども、僕と姉さんは、血は繋がっていない。苗字も同じじゃない。言ってしまえば、姉さんも、娘さんも、赤の他人だ。

 彼女の父親はずうっと前に薬品会社での事故で亡くなっていた。そして、親戚もなかった。彼女はほんとうに、一人ぽっちになってしまったのだ。

「みつきさん、僕の家へおいで。一緒に住もう」

 彼女はまだ未成年だ。一人で暮らすなんて、あんまりにも酷い。せめて僕が、形だけでも身寄りになれれば。そう思って声をかけた。

「ありがとう」

 彼女は一瞬戸惑って、それからすぐに笑った。おひさまみたいな笑顔だった。眩しいくらいで見ていられなくて、僕はそっと目を逸らした。



 引越しの準備はあらかた片付いた。彼女は物欲の少ない人で、元の家には必要最低限のものしかなかった。いや、或いは、母子家庭だったので我慢していたのかもしれないが。

「よろしくお願いします」

「うん。ああ、そんなに固くならないで。自分の家だと思っていい」

 また、ありがとう、と微笑んだ。上品な笑顔だった。

「何と呼んだらいいかしら。叔父さん、というほど、歳は離れていない気がするの。」

 みつきさんは今年で、確か18歳だ。僕と姉は歳が離れていたから、僕は今年で25。彼女に言わせれば、まだ僕はおじさんではないようだ。

「じゃ、紅葉もみじでいいよ。下の名前。」

 みつきさんは何度か口の中でもみじ、と繰り返すと、ウン、ウンと頷いて、またおひさまのように笑った。

「よし、じゃ、僕は仕事に行ってくるから。夕飯は冷蔵庫のカレーをあっためて食べてね。お風呂の栓は抜いておいていい。明日の午前中に帰ってくるから。ええと、あとは…」

 タオルの場所、寝床、調理器具、歯ブラシ。思いつく限りのことを教えた。途中で、今は教えなくてもいいか、なんてこともあったが、彼女は笑顔で頷きながら聞いていた。

「じゃ、行ってきます」

「ウン、行ってらっしゃい」

 外へ出て、駐車場へ歩いて、キーをさして。ふと、恋人がいたらあんな感じだろうか。なんて考えていた。



「ただいま」

 朝の十時頃だった。今日は土曜日だったから、学校もないはずだ。

「みつきさん?」

 リビングを覗くと、ソファのかげに人の足が見えた。

 ―倒れている。

 みぞおちの辺りがスっと冷たくなるのを感じた。ヒュ、と喉が変な音をたてる。荷物も全部放り出して、駆け寄った。

「みつきさっ―」

「…ん、もみじさん」

 目を擦りながら、彼女は体を起こした。うーん、と腕をいっぱいに伸ばして伸びをする。

「な、…え?こんなところで寝たの…」

「ふふ、床がとっても冷たくて、気持ちよかったの。」

 彼女はちょっと舌を出した。そういえば、この室内はいやに暑い。ふとエアコンを確認すると、熱風が出ていた。

「あっ」

 慌ててエアコンのリモコンを探す。普段使わないものだから、どこにあるのか検討さえつかなかった。

 家中ひっくり返して、やっと戸棚の奥から見つけ出した。すぐさまスイッチをオフにする。しばらく熱気は収まらなかった。

「ごめんね、なんかの拍子に作動したみたい」

「ううん、いいの。寒いよりは好きよ」

 熱気で火照った頬で、彼女は笑った。こんなに暑い部屋の中でも、彼女の笑顔は涼しげだった。



 夕飯に食べたオムライスの、食器の片付けをしていた。今日は早番だったから、早く仕事が済んだので、彼女が朝と昼飯担当で、僕が夕飯担当だった。

 彼女はテレビを見ていた。ぼうっと、見ると言うより眺めていた。

 彼女は明るいが、口数は多い方ではなかった。質問すればたくさん話す。けれども彼女からたわいもない話をすることは、滅多になかった。そして僕は元から無口だ。だから、二人きりのこの家は、いつだって静かだった。

 食器洗いの水音が響くなか、ポツリと彼女が言った。

「人は、あまりにも簡単に、死んでしまうものよね」

 思わず手を止めた。顔を上げた。テレビはニュースがついていた。電車の、人身事故のニュースだった。

 彼女の声は、確かにそこにあったのに、温度を少しも持っていなくて、まるで電話越しに話しているような、そんな埋まらない距離を感じた。返す言葉が見つからなかった。僕はすっかり、食器を洗うのをやめてしまった。

「ああ、ごめんなさい、そんな顔をしないで。深い意味はないのよ」

 振り返った彼女が言った。僕はそれほどに、酷い顔をしていたのか。なにか君を憐れむような、そんな顔を。

 彼女はいくつか深呼吸をすると、軽く頭を振った。

「私はね、みなしごになってしまったけれど、きっと悲しくなんてないのよ。悲しいと感じるのは、今までがあんまりにも幸せだったからで、今はきっと、もっと前にいた場所に、戻ってしまっただけなんだわ。だからだいじょうぶ。この世に背負わなくちゃいけないものなんて、存在しないんだもの。」

 一気に、彼女はそう言った。初めて聞いた、彼女の、悲しみを形にした言葉だった。その言葉はこの空間にストンと落ちて、全く静かだった水面みなもに波紋を産んだ。その波は大きく広がって、いつしか僕の涙になった。気がついたら涙があふれていた。もう何年もご無沙汰だった、姉の葬式でも流れなかった、枯れたと思われた涙だった。何度目元を擦っても、擦っても、止まらなかった。狂ってしまった機械のように、僕はひたすら泣いていた。

 彼女は無言で僕に近寄り、背中をさすってくれた。七つも下の女の子に、慰められる日が来るとは思わなかった。僕は、それほど弱かった。



 改札を抜けた。今日は早番だった。さらにいつもより早く仕事を終えることができて、かなり早い時間に帰れた。まだ日は沈んでいなかった。

 たまには歩いてみようかと、駅から家までの道のりをだらだら歩を進めていたら、見覚えのある黒髪が、角を曲がるのが見えた。瞬間、フラッシュバックのように、姉の姿が目に浮かぶ。思わず駆け出した。そんなはずはないと、わかっているのに。足は止まらなかった。パッとその細い腕を掴むと、弾かれたように振り返ったのは、みつきさんその人だった。ああ、道理で、と勝手にひとりで納得した。

 しかし、あれ、おかしいぞ。彼女はこの時間、学校のはずだ。彼女は制服も着ていなくて、重たそうなカバンも持っていなくて、ただ手ぶらで白いワンピースでそこにいた。

「…紅葉さん、………ごめんなさい」


 彼女はずっと、学校に行っていなかった。僕が仕事に行っている間は、家にいたり、僕の方が家を出るのが遅い時は、学校へ向かったフリをして、街の中をフラフラしていたらしい。

 僕は責めた。心の中で。彼女をでは無く、気づけなかった自分を。当たり前だ。大切な人を喪ったんだ。平然と日常を過ごせるはずがない。なんで気づいてやれなかったのか。

「…みつきさん、食べたいもの、ある?」

「え?」

「何か食べに行こう。うんと高いもの。うんと遠くまで。」

 入ったのは近所のラーメン屋の屋台だった。彼女の希望だ。遠慮しなくていいと言ったが、彼女はここがいいと言った。

 彼女は醤油ラーメンを頼んだ。僕は味噌ラーメンを頼んだ。そういえば、姉も醤油ラーメンが好きだった。

「お母さんがね、ここのラーメン好きだったの。」

「ウン、そうだね。」

 知ってるよ。よく知ってる。僕も好きだ。よく一緒に来た。

 彼女は運ばれてきた醤油ラーメンを、ありがとうと言って受け取った。まずはチャーシューから食べて、次に海苔をスープの中に沈めて、それからふうふうと冷まして食べる。れんげの中に少しの麺を入れて、スープを入れて、れんげでミニラーメンを作ってから口に入れる。あの人もいつも、いつもそうしていた。

 ふと、麺をすする音が止まった。隣を見てみれば、彼女は大きな瞳から、ポロポロ涙を流していた。もくもくと口を動かしたまま、あふれる涙を拭おうともせず、麺を咀嚼していた。あまりに悲しい目をしていたから、僕は何も言えなかった。彼女は声を上げなかった。ただ静かに、たった一人で泣いていた。

 彼女は僕よりずっとすごくて、ずっと賢くて、号泣するような、母親を亡くした憤りや不満、無念、その全てを、とうの昔に通り過ぎていたのだ。しかし彼女の、泣けることへの安堵のような静かな涙は、止まることを知らなかった。



 翌朝、パタパタと廊下を駆ける足音に目を覚ますと、みつきさんは制服を着ていた。

「学校、行くの?」

 思わず尋ねた。言葉を選ばない、全く彼女に配慮しない発言に、僕は後悔した。けれど、そんなことなかったみたいに、彼女はにこにこしていた。

「ウン。いつまでもこんなじゃ、ママに怒られちゃう!」

 行ってきます、と笑った、彼女のその笑顔は、光を受けて輝くお月様みたいで。それは酷くあの人に似ていて、彼女を見送ってから、僕はまた一人で、少し泣いた。

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灰の街 蓮見 葉 @haru_kokonatu

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