第四部 もう一人の守護天使

1.沙織の夢

 これは、いつの記憶だろう?

 そうだ……私の、現実世界での最後の瞬間だ。

「ねえ、彩織は……天司あまつかさ君の行き先に、心当たりないの?」

 その時のキョウヤは、ただのクラスメイトでしかなかった。珍しい名前だからちょっと気に留めていただけで、今まで何か接触があったわけじゃない。

 私は戸惑いながら首を振り……軽い別れの挨拶を交わして、帰宅した。

 中間テスト前の今日は、部活もお休みだ。雨空の中を真っ直ぐ帰宅したものの、私は素直に試験勉強に向き合う気にはなれなかった。

 ……フミの言葉に、何か違和感を覚えていたからだ。

 私は自室の押し入れを開いて、その奥に封印していた幼い頃の記録をあさりはじめた。

「あった……」

 転校前の小学校の名簿。

 こんなもの、もう目にすることもないと思っていたのに。

 名簿に記された皆の名を眺めていく……中には、顔も思い出したくない人物の名も混じっている。そのせいだろうか、手が震えだして、胸のドキドキが止まらない。

 そして……私は、覚えのある名前を見つけてしまった。

『天司』

 その名を目にした時、私は……それまで信じていた、天使ミラ様の存在を疑ってしまったのだ。

「そんな……」

 一瞬でもそんな思いが胸をよぎったことが、信じられなかった。

(ミラ様って、まさか……)

 自分の信じる『特別』が、揺らいだ瞬間だった。そう疑ってしまった自身に対して、寒気すら覚えてしまう。

「ミラ様を信じられない私なんて……なんの意味もないよ……」

 思わず口にしてしまった、その瞬間に。

 世界が暗くなった。

 気持ちのせいだけじゃない。

 全身に覚える不気味さ。私はおびえながら、光源だった部屋の電灯を振り返ってみた。

 そこには……大きな、灰色の目玉が立ちはだかっていた。

 それは私をじっと見据え……そして、告げたのだ。

「お前には意味がない……そうだな?」

 それとともに……落下感。

 床が抜けてしまったのか。それとも、私は自分の中の絶望へ向けて沈んでいるのか。

 内臓が偏り、悲鳴を上げている。しかし、どんなにもがいても、私は落下に抗うことができない。

 誰かの腕が、私のつま先を強くつかんで、引きずり込んでいる。

 この手は……いったい、誰だろう?

 そう思う間に、私の身体は知らない部屋の床に叩き付けられた。

 蛍光塗料で何かの模様を描いた床の上を、私は転がる。

 全身に走る痛みを必死にこらえ……顔を上げると。目の前に、黒い前髪を長く垂らした男子が座り込んでいた。

 ひどく驚いた顔で、狼狽えていた彼は……今思えば、キョウヤだったのだ。

 だけど、そんなことを考える余裕など、私にはなかった。恐怖と混乱で、頭の中がいっぱいだった。

「ふむ。まだ、エネルギーは残っているな」

 声に振り返ると、部屋の中にはもう一人、灰色のフードをかぶった少年が……アルティールが立っていた。彼はそうつぶやくなり、私に向けて刃物を突きつけた。

 蘇る記憶。あの事件の時も私は、こんな風に刃物を突きつけられて……。

「……もとの世界に戻りたいだろう?」

 しょっぱい味が胸の内に充満し、私の目から涙となってこぼれだしそうになる。

「さあ……名を呼んで」

 金色の瞳をきらめかせ。アルティールが、さらに声をかけてくる

「キミが求める者の名を!」

「ミラ、様……」

 私は思わず、あの神聖な御名を叫ぶ。

 ついさっき、その存在を疑ってしまったばかりだというのに。

 勝手だとは思う。しかし……私は全霊で、すがるしかなかった。

「助けて、ミラ様……! 助けて……!」

 その瞬間に、まばゆい光。私の胸から生じたそれは、目を焼くほどなのに、何故か柔らかく、温かい。

 そして、どこかで耳にしたことのある声が、私に呼びかけてきた。

「大丈夫……私が守るから……!」

 光が収束し、アルティールの目をうがつように向けられる。

「なんだ、この光は……!」

 それだけのことで、アルティールが強い圧にもてあそばれるように、床に転がった。

「くそっ……だが、もう十分なデータは取れた!」

 そう叫び……彼は、床に落ちていたバッグをつかみ、部屋から飛び出していった。

 私と……それからキョウヤも一緒に、それを呆然と見送る。

 その視界の中に……ゆっくりと、まばゆい輝きが降り立った。

 輝きはやがて人の姿を取り始める。鏡で目にする私と同じ、だけどちょっとだけ違う……強くて、しっかり者で、優しく、穏やかで……そして背中に大きな白い翼を背負っている。

「これは……いったい……?」

「護天星騎士ミラヴェル・カオリ・ホシミヤ様……」

 つぶやき慣れたその御名を、私は口にする。

 目の前に降り立ったミラ様は、静かにうなずくと、私に向けて微笑みかけた。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 今ならわかる。ミラ様は、この瞬間に身体を得たのだ、私の必死の叫びに応えて。

「でも、負荷が強すぎるみたいだから……今は、記憶を封じましょう」

 そうささやきかけて、ミラ様はそっと私の頬に手を添えて、額に口づけをくださった。

「見守っているから……だから、また会いましょう……」

 その、額に覚える柔らかさに驚いた瞬間に。

 私は、目を覚ました。

 条約機構支部の職員宿舎。私が今、シセインと一緒に寝泊まりしている部屋だ。

 布団の中から身を起こし、私は奥の歯を強く噛む。

(なんでこれを、今まで忘れていたんだろう? なんで今、思い出したんだろう?)

 額はすぐに、あの唇の感触を失ってしまう。

 隣でまた、シセインがうなされている。私も……覚めたまま、うなされはじめる。

 夜の露が、私の心をしめやかに濡らす。それが涙に結晶してしまうのを、私は闇の中で必死にこらえていた。

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