外伝3 フミの夢

1.ベッドの海に私は沈み

 私たちが学校で最後に顔を合わせた、あの日。

 私は沙織に、こう声をかけた。

「ねえ、彩織は……天司あまつかさ君の行き先に、心当たりないの?」

 担任がホームルームで、クラスメイトである彼の行方不明を告げたからだ。

 彩織はその時、「知らないけど?」とたしかに言って、不思議そうな顔をしてみせた。

 だけど……彩織は、消えた。その日のうちに、忽然と。

 親友の私にすら、行き先を告げず。消える予兆すら、隠したまま。

 ……きっと、彩織は天司の行き先を知っていたか、見つけてしまったんだ。

 私は自室のベッドの海に伏して、柔らかい敷布の中に深く、沈み込む。

 この海は孤独だ。寄るべき岸など見えはしない。風が波を作って、私を揺らす。月の引力が潮の厚みと流れを生んで、私をどこかへ流し去る。

 心を落ち着けさせる効果があるから、部屋にはカモミールの香りを漂わせている。だがそれですら、今の私の海を鎮めさせてはくれない。

 私はただ、海の中に顔を沈ませ、漂うだけ……。

 窓の外で、雨がしめやかに降り続ける。それが私の海にも降り注いで、そのまま塩水となって、水深をさらに増していく。

 この雨の中、彼女はどこへ消えてしまったのかな……。

「なんで……私を置いていったのかな」

 顔に枕を深く押し当てる。うずめた頬が、雨に濡れたように湿りを帯びていた。

 重く、切なく、ほのかにけぶる、恨みの情。

 にじんだ視界の隅に映るのは、積み上げられた書物たち。昨日までの私が読みたがっていたはずのそれらの物語も……今は、手に取る気になどなれない。

 信じていたのに。ずっと世話を焼いてきたのに。

 どうして、私に相談のひとつもしないで、行ってしまったのか。

 沙織は今頃、天司に会って……あの日の真実を、確かめ合っていることだろう。

 私がせっかく、転校してくる前の日々と事件を、忘れさせてきたのに。全ては、水泡に帰してしまうのだ。

 そして、彼の額の傷の正体を知ったなら……沙織は彼を、放ってはおかないだろう。

 二人はそれから、秘密の旅に出る。

 旅の中で、様々な体験を共有し、距離を縮めていき。

 ……その中で、私のことなど忘れてしまうのだ。

(こんな私……何の価値もないのかな)

 世界が暗転する。

 視界を、文字通りの闇が包み込む。

 照明を落とした室内に、唯一の明かりを投げかけていたのは、窓の外の雲ごしの太陽。

 それが……何かに遮られた。

 なんだろう? なにか、日常では起きえない現象が訪れた、そんな予感を無意識にさとる。

 気怠けだるさを訴え続ける頭を横に向け、窓の外へと目を向けた。

 視界に入ってきたのは……つやのない銀灰ぎんかい色の眼球だった。

 機械なのだろうか、それとも死人のものなのだろうか、その眼球に血管は見当たらない。

 ……これは、私が望むファンタジーとは異質のモノだ。

 恐怖。それが、私の身体をベッドの海に縛り付ける。

「お前は、何の価値もないのだな……?」

 眼球は無表情のまま、確認するようにそう告げる。

 それと同時に、私の身体が急速に沈みだす。

 誰かが、私の手を引いている。

 この感触……そして力加減。きっと、沙織だ。

「フミ……ちゃ……」

 沙織が、必死に助けを求めている。

 勝手だ、と思う気持ちはある。だけど、その震える声を聞いてしまったら、放っておくことなんて、私にはできない。

 私はそのまま、拒まない。この眼球が沙織の使者だというのなら、それですらも受け入れてみせる。

 彼女が引っ張る手を、私は強く握り返す。彼女がどこかへ喚ぼうとしているなら……どんな場所であろうと、私は駆けつけるのだ。

 沙織は、小学校の時に転校生として私のクラスにやってきた。

 おびえた仕草と、不安そうな目つき。それが皆の目を引いたが、どう接したらいいものか、誰もわからず、戸惑うばかりだった。

 しかし……私はその姿に、母性と言えば美しくなるだろうか、庇護欲を強く刺激された。

 だから、私は彼女に近付いた。闇の中を探るように、お互いの距離をはかり、向き合い方を考え、触れ合おうとして腕を差し伸べ……そしていつしか、強く手を握り合う仲にまでなれた。

「行くから……フミちゃん……!」

 沙織が呼んでいる。何かに苦しみ、おびえて、私にすがりつこうとしている。

 私はそれに応え、彼女の名を呼ぶ。

 自分の身体は、さらに深く、海の底へ向けて潜っていく。それでも、恐怖は覚えない。その先に、沙織が居ると確信できたから。

 彼女は、いつだって私を頼りにしていた。私の後をずっと追いかけてきて、同じ高校に通うために、入試だって頑張って成功させた。

 そんな彼女を……いつからか、私も必要としていた。

 今なら、それがわかる。

 私には、沙織が必要なんだ。

 それなのに……。

 海の中でつぶやいて、泡を吐いた瞬間、私の夢が急激に覚めていく。

 それとともに、私をさいなみ始める、深い罪悪感。

 私は、否定してしまったのだ。

 彼女の信じる、守護天使を。

 沙織は、ファンタジー好きの私に影響されたせいだろうか。時折、不思議な話を口にしていた。

「私のことは、守護天使様が見守ってくれている。だから、何があっても大丈夫」

 そう言って、どんな苦しみも耐えようとした。

 おそらく、いじめを受ける日々というものは、そう思い込みでもしないと、やり過ごせないほど辛いモノだったのだろう。それが……天司との記憶と混ざり合い、彼女の中でひとつの神話を生み出した。

 彼女がそれを一途いちずに信じる姿は、私に困惑と羨望せんぼうと、そして淡い嫉妬を覚えさせた。

(守護天使より、私を見て。私にすがって、感謝して)

 そんな気持ちがあったことを、認めなければならない。

 その気持ちのために、私は……私は、沙織を傷つけ、彼女の信じるモノを否定したのだ。

 今でも、覚えている。あの時の燃えさかる村の熱気と、匂い。

 そして……私たちの目の前に本当に現れてしまった、あの守護天使の神々しい姿も。

 もう、なにが現実で、何が空想か、わからない。

 なにが真実で、なにが嘘なのか、わからない。

 全部、夢だったらいいのに……。

 目覚めの岸に打ち上げられた私は、よろよろと身を起こし、眼鏡を手に取って、顔にかける。

 明瞭になる私の視界、明晰になる私の頭、明白になる私の罪。

 私はもう……逃げられない……。

 条約機構カルルッカ支部の図書室に、私のベッドが据えられている。

 ここを寝起きに使っていいとアルティールに言われた時は、胸が激しく高鳴ったものだ。

 だけど……積み上げた書物の中に浮かぶこのベッドは、よく見ればどこまでも広がる海なんかではなかった。

 これは、罪の塩水が流れ込んで出来た、死の湖だ。どこへも流れ出ることができない、どこへも渡ることができない。あまりに狭い、私の世界。

 私は敷布の水面みなもに両手をついたまま、瞳から静かに雨を注がせた。

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