第三部 沙織の責任

1.囚われの私たち

 誰かの泣いている声がした。

 夢……じゃ、ない。そんなモノ見るほどの余裕もないぐらい、私の身体はひどい目に遭って、疲れ切っていたはずだ。

 誰かがいとおしげに、横向きに寝そべる私の頬をなでている。そして温かなその手が、まるでひとときの別れを告げるかのように私に強く触れ、そっと離れはじめた。

 腹部に覚える温もりが、眠る私に何者かがずっと寄り添っていたことを教えてくれる。

 ……きっと、ミラ様だ。

 起き上がり、その御姿をちゃんと目にして、お礼を言わなくては。そう思って、上体を起こそうとするが、全身がみしみしと痛みを訴えだす。それによって、私の頭がはっきりと覚めていく。

 『手当て』をする者がいなくなったんだ。

 痛みに耐えるためにぎゅっと引き締めた目を開いていくと、薄暗い空間の向こうに鉄格子が見えた。

 ここは……牢の中だ。

 キョウヤのいた牢と、窓や格子扉の向きが対になっているから……女性用の牢なのだろう。

 泣いている声が、まだ聞こえる。短い嗚咽を交えたそれは、たぶんシセインのものだ。

 私は全身を縛り付ける痛みに必死に抗いながら、上体を起こした。

 狭い牢の中には、誰の影も見当たらない。シセインも、そして……ミラ様も。

 ベッドは硬く、シーツの目は粗く、掛布は薄く、窓は小さく、部屋の片隅には排泄物入れがあって。

 粗末にされてはいないけど、大切にされてもいない……そんな空間が、たぶんこの隣にもあって、そこに神殿のお嬢さまが押し込められているのだ。

「シセイン? 無事?」

 声を上げると、驚いた叫びが短く響いて、また泣き声が聞こえ始めた。

「サオリぃ……よかった、生きてるぅぅ……」

 生死を心配されるほど、私はひどい眠り方をしていたのだろうか。

 私たちは声を掛け合い、お互いの状況を確認し合った。幸い、シセインも身体を縛られるような目には遭わされていないらしい。

 しかし……この境遇は、彼女にとってはあまりにもショックなことだろう。気遣う言葉をかけると、彼女はまためそめそと泣き始めた。

「私のせいだぁ……。神殿にも、サオリにも顔向けできないよぅ……やっぱり……私、ダメだなぁ……」

「ダメじゃない!」

 鉄格子の隙間に顔を押し込み、強く、声を掛ける。隣の牢に居るであろう彼女の姿は見えないけど、この言葉はしっかり届けなくちゃいけない。

「シセインは、ちゃんと最後までやりきった!」

 そう、結果はどうあれ、彼女はやり遂げたんだ。悪いのは、甘い言葉に誘われて儀式を始めさせ、そして失敗に導いた……。

「これは……私の、責任なの!」

 認めたくはないが、今の私はキョウヤと同じ立場になってしまったのだ。

(家に帰るとか、設定ノートどころじゃ、なくなったな……)

 シセインもいい加減、泣き疲れたのだろうか。隣からの声が途絶えて、沈黙が流れだす。私もうつむいたまま、じっと時が過ぎるのを待ち続けた。

(キョウヤはこの長い時間を、ずっと土下座して過ごしていたのだろうか)

 やがて、格子扉の向こうから物音が聞こえてきた。

 重い扉を開く音。それに続いて階段を下りてくる足音と……それを追い抜いて、誰かが駆け下りてくる。

「沙織!」

 叫びながら、格子扉にしがみついてきたのは……私がこの世界に呼んでしまった、親友のフミだった。

「フミちゃん!」

 彼女に一番近い鉄格子の隙間に、私は顔をねじ込んでいく。フミが必死に差し伸べてくる、その手を取り返そうと、私も腕を差し伸べる。

「落ち着いて。今開けますから」

 フミの背後から、聞き覚えのある、だけど固い声がかけられた。カルルッカの街で、私に着付けを教え、外へ逃げる手配をしてくれた女性職員だ。

「……お願いします」

 そう言って、身を引いたフミの声が、涙に濡れている。

 女性職員は格子扉を開け、そのまま進み入って私の牢の鉄格子も開ける。

 私が外に出るよりも早く、フミが中に飛び込み、抱きついてきた。

「沙織……沙織……!」

 彼女は何度も、私の名を泣きながら呼んでくれる。私もその親友の名を、繰り返し声に出した。

 彼女のメガネが顔にぶつかって痛いけど、それがなんだ。私たちは牢の中で、強く抱きしめ合った。

 彼女から漂う、ふわっと柔らかい香り、そしてやさしい肌触り。懐かしい……いつか、私が不安で仕方なかった日にも、こうして抱きしめてくれた。

 そんなフミに、せっかく、また会えたのに……こんな場所と関係だなんて……。

「ホシミヤ・サオリさん」

 女性職員が、彼女の後ろから声を掛けてくる。まるで我が子を叱りつけるような、冷たく強い口調。

「あなたが喚び出したツキノ・フミの、たっての希望により、あなたを条件付きで牢より出します」

 言って、私とフミの間に割って入る。

 そして彼女は、キョウヤと同じ黒いチョーカーを取り出して、それを私の首に付けさせた。

「逃げだそうとしないこと。もとの世界へ戻る術を再び行おうとしないこと。また、それらをそそのかす言葉を口にしないこと。……この首輪はそれらを記録し、悪い言葉を消し去ります」

 そうか……キョウヤが着けていたこれは、ファッションなんかじゃ、なかったんだ。

「さあ、あなたが喚び出したご友人を、案内して差し上げなさい」

 言って、彼女はその身を一歩引く。フミはまた私に抱きついて、私の無事と状況をあれこれ確認してきた。

 自分が異世界に来てしまっているというのに、やっぱりフミは、私のことを第一に心配してくれるんだ……。

 この世界のことや、キョウヤのことも話しておかなければならない。だけど、まずはこの辛気くさい場所を離れたい。その気持ちは、やはり彼女と一致した。

「……まずは、外へ出よ?」

「うん……」

 シセインにも一声掛けてから牢を離れ、階段を上って、重い扉をくぐって出る。

 そして外の空気を深く吸い、今までため込んだ空気と不安をゆっくり吐き出す。

 その後……私たちは少しの間だけ、お互いに言葉を出せなくなっていた。

 私はまず、フミに謝罪を告げねばならない。こんな世界に勝手に喚んでしまったのだから。

 しかし……どんな言葉でそれを示すべきなのか。さっきまで必死に考えていたはずの考えが、まとまらずにほどけて、飛んで行ってしまう。

 彼女の方も、何かを言い出そうとして、ずっとためらっているようだった。

 妙に、気まずい空気が流れている。背後に立つ女性職員の沈黙が、それをますます強くしている。

「あのね、沙織……」

 最初に口を開いたフミは、なにかを口にしかけて……あわててそれを仕舞い込んで、しばし何かを口ごもった後、こんな言葉を紡いだ。

「この世界にも……本、って、あるよね?」

 その挙動に不自然さは覚えた。でも、彼女が口にした言葉は、本の虫である彼女らしい、あまりにも自然な問いではある。

「うん……いっぱい。支部の中にも、街の方にも」

 そして、この世界の文字の読み方はもう身についているはずだ、そう告げたときの彼女の顔の輝きようは、忘れようにも忘れられない。

(そうだ……これでこそ、私の知るフミちゃんだ)

 そんな会話に、背後で女性職員があきれた声を出すのが聞き取れた。

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