2.悪夢

 落下速度が止まらない。しかし、俺はまだ夢から覚めそうにない。不安感が、どこまでも増し続けていく。

 これは……あの儀式の時に覚えた不安感にも似ている。

 全身に思い起こされる、身体を端から裁断されていくような激痛。

 手足の先端には神経が集中している。そこを傷つけるのは、拷問の常套手段だ。

 そして、手の先がDNAの形に分解されていく。俺は、このままどうなってしまうのか? そう、強く動揺したタイミングを見計らったかのように、

「もとの世界に、戻りたいだろう? キョウヤ・アマツカサ」

 アイツの声だ。僕を騙した少年……アルティールの声だ。

 闇のスクリーンに、その場面が記録映画のように流される。

「苦しいなら、自分の故郷を思い浮かべて、そこで待つ人の名前を呼ぶんだ」

 魔法陣の端に立つアルティールが、平板な声で俺に告げる。

(ダメだ。そいつの言葉に従っちゃいけない。俺は、そうしたせいで……)

 しかし。俺の視界の中で、情けなくうめいていた俺は、ついに口を開いてしまった。

「星宮さん……星宮さんに、俺は……」

 声をかけたいと、願ってしまったんだ。

 そんなことをしたら、彩織の過去の記憶を掘り起こしてしまうのに。

 だけどその時の俺は、なんとしても彼女の誕生日までに現実に帰り着き……彩織に、この胸の想いをぶつけたいと願ってしまったんだ。

 閃光。

 そして、二重螺旋の形になって伸びきっていた俺の手足が、元に戻っていく。

 その、俺の指先は……彩織の手を、しっかりと掴んでいた。

 そして俺の手が、彩織を床の魔法陣に叩き付けてしまう。

 彼女は、魔法陣のもうひとつの円の中に収まって……手足を床についたまま、ひどく狼狽うろたえていた。

 その時の彼女はまだ、意識を保っていた。

 辺りの光景を目にした彼女は、当然、状況を飲み込めず、ひどく取り乱しはじめた。

「どこ……? ここ、どこ……?」

 彼女を落ち着かせなければ。そして、なんとしても守らなくては。そう強く思っているのに、俺の全身はまだ激痛に襲われていて、口を開く事もままならない。

「ふむ。まだ、エネルギーは残っているな」

 アルティールはそうつぶやくと、今度は転移酔いを起こしはじめている彩織に向けて、またあの言葉を告げたんだ。

「……もとの世界に戻りたいだろう?」

 その光景を、今、あらためて目にしながら、俺はある可能性に思い至る。

 たしか沙織は、帰還の儀式は整っていると俺に告げた。そして、協力者がいることも口にした。もし、それが……アルティールのことだとしたら。


 そこで、俺は目を覚ます。

 彩織の身をずっと案じ続けていたのに、自分は眠ってしまっていたのか。

 小さな窓から、白み始めた空の明かりが、かすかに射している。外から届く、小さな鳥のさえずり声。

(ひと晩、ずっと起きているつもりだったのにな……)

 あまりの情けなさに、いっそ死んでしまいたくなる。

 その耳に、階上から靴音が降りてくるのが聞こえてきた。この音は、たぶん……。

「……キョウヤ君」

 やはり、アリデッドだ。

 格子扉の向こうから、俺に声を掛けてくる。

 俺は深く後悔する。アルティールの影に、もっと早く気が付くべきだった。そしてアリデッドに、ヤツの企みを止めてもらうよう、頼んでおくべきだった、と。

 俺は上体を起こし、聞き返す。

「……彩織は……」

 還ることができましたか。本当はそう聞きたかった。しかし、この牢での会話は全て記録されている。

 それに、この首輪。チョーカーの形に作られたがはめられている限り、脱走と帰還の意志を示したり、それを願う言葉を発したりすることはできない。それらの言葉は、魔法でかき消されてしまうのだ。

 彩織が帰還の術の話をした時も、そうだ。あの場で俺は、彼女の求める言葉を口にする事ができず、彼女を傷つけてしまった。

 でも、俺の事を憎んだままでもいい、どうか、先に現実へ戻っていてくれ……俺も後から、必ず会いに行くから……。そう、胸の中で強く祈った。沙織の信じるミラ様でもいい、どうかそれを叶えてくれ、と。

「それなんだが」

 アリデッドが言いよどむ、その様子から、ただならぬ出来事が起きたことを察する。

「……彼女は、喚んでしまったんだ」

「……え……」

「まさに、君と同じ状況だ。喚んだのは、彼女の親友らしい。名前はたしか、」

 ツキノ・フミ。

 アリデッドが口にしたのは、俺と彩織のクラスメイトで、彩織の親友だった月野 文のことに違いない。

 あまりの衝撃に、全身の力が抜けるのを覚えた。この悪い夢は……まだ、繋がっていくのか……!

「今、処置と手当てを行っている。サオリ君もいっしょにね」

 不安と絶望が、俺にあの一幕の、最後の瞬間を思い出させる。

 アルティールは去り際に……俺のバッグを持ち去ったのだ。いつも眺めていた、歴史の資料集ごと。

 ヤツは、俺の大切なモノを、なんでも奪っていってしまう。

 だけど、せめて……せめて沙織だけは、残していってくれ。

 俺は祈り続けた。沙織の無事を、使に……。

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