10.叫んだその名は
『星渡りの術』を行う儀式が、
シセインが口にする、はじめて耳にする言語と、音階。かすかに震えながらも、それらはしっかり声に出されていく。
少年はずっと、正面にあるもう一つの小さな円の向こうに立って、何かの魔導具たちの操作を行っている。様々な光が部屋のあちこちで明滅し、その度に辺りの空気がかすかな変動を見せている。
動物たちの血の匂い、複雑に配合されたお香、ロウソクの灯火の揺れる影、またその熱、私たちの汗と体温、そして黒い箱から放たれる強いエネルギー……それらが室内で混ざり合いながら回転を続ける。まるでシセインと一緒にのぞき込んだ、幻の宇宙を表すように。
入り口から斜めに降り注いでいた月の光が、魔法陣の中に座る私の身体を照らしている。それがゆっくりと傾いていき……そして、もうじきかげる、そう思われた頃。
私の身体が、光に包まれ始めた。そして、それは止まる事なく強さを増していく。
……胸が苦しい。
徐々に手足がうずきはじめ……そこに突然、激痛が来た。
爪の先から順に、細かく千切りに刻まれていく感触。
ここで、そうだ、故郷を意識するんだ。
えっと……住んでいた地方都市。我が家。両親。学校。友達。そして……ミラ様!
ミラ様がいれば大丈夫!
そう念じた瞬間に、どくんと胸に振動が来た。呼吸ができない。血流が止まる。
飛び跳ねた私の顔が、横に立つシセインに向いた。彼女も、額に汗を浮かべ、顔を赤くし、苦しそうにしながらも呪文の詠唱を続けている。
彼女も、頑張っているんだ。
私も……私も、頑張らない……と……
でも……限界だ……これ以上、は……私、が……。
「待っ……待っ……て……」
儀式の中断を訴えかけようと、声を絞る。
正面に立つ、この儀式を支配している少年を必死に見上げ……そこで私は、驚きにすくんだ。
彼は……笑っていた。
私を見下ろし、愉悦にも似た表情を浮かべていた。
その様を目にしていてはいけない……そんな予感を覚え、無理に顔をそらすと……私の身体に、信じられない出来事が起きていたのを目にしてしまった。
私の右手の先が、ほどけだしていた。虚空へ伸ばした指先が形を失って、二重のらせんになっていく。きっと、激しい痛みを訴える私の左手と両足も、同じ目に遭っているのだろう。
「助……けて……!」
思わず取り乱しそうになり、私は目を引き閉じる。
そして、再び念じようとした。私がいつも助けを求める……神聖なるあの御名を。
「ミラ……様……」
その時だった。
「大丈夫……」
私の身体を、誰かが抱きしめた。
温かくて、柔らかくて、優しくて、淡く光を帯びていて。大きな翼と、両の腕と、その胸とを、私の身体にぎゅっと押し当てている。
「私が、共に居る」
護天星騎士ミラヴェル・カオリ・ホシミヤ様。
私の守護天使様が、その総身で私に『手当て』を行っている。
全身の痛みが消えていく。身体に生じる異変は続いているはずなのに、その手足は不快を訴えてこない。
思わず目を見開くと、ミラ様は私の顔をのぞき込んで、たしかに笑んでくださった。
その顔の向こう、翼の合間に、少年の顔がのぞき見える。彼は……ミラ様の御姿を目にして、はっきりと驚愕の表情を見せていた。
「お前……まさか……」
少年は剣を構えたまま、私たちを警戒するように魔法陣の端を伝うように横へと歩き……そして、部屋の入り口を背にすると、そこから一目散に駆けて逃げ出した。
(……!)
驚きに、声も出せない。
(私は……また、裏切られたの……?)
震えが止まらない。でも、そんな私を、ミラ様はその場でずっと抱きかかえ、動かないように留まらせている。今、ここを離れて儀式を中断すると、きっととんでもない事態に陥ってしまうのだろう。
(そうだ……ミラ様は、私を裏切らない)
「シセインちゃん、続けてあげて」
私と同じ、だけど私じゃない声が、シセインに掛けられる。彼女が息をのむ音が耳に届いたが、極限まで緩められていた詠唱が、また聞こえだす。
しかし……儀式を司る者が居なくなったせいだろうか。今度は、脳が締め上げられる感覚が襲ってきた。そして、床が抜けて落下していくような、不安感。
ミラ様に抱かれる感触と、苦しみとが、脳の中でないまぜにされる。
与えられる不快は、強さと形を変えながら、次々に襲いかかってくる。
その中に……私は、覚えのある感覚を見出してしまった。
小学生の時の、いじめの記憶。
あの時、お父さんもお母さんも、学校の先生たちも助けてはくれなかった。
もし、あの時……ミラ様が見守ってくれていなかったら。
もし、あの後……理解して助けてくれる親友が現れなかったら。
親友……フミちゃん……。
私を苦しみの数々から解き放ってくれた、人間で一番求める者。
「フミ……ちゃ……」
ミラ様はそこに居る。そこに居て、螺旋状に分解されていく私の手を握ってくれている。
だから。私は、これから向かうべき所で待っている、その人の名を叫んだ。
「行くから……フミちゃん……!」
その瞬間に。あたりが閃光に包まれた。
二重螺旋の形に分解されていた私の身体が、逆回しに引き戻される。
私の身体へと戻っていく、右腕の先端は……何かを、しっかりと掴んでいた。
私の姿に戻った指先が、その手を離し……魔法陣の、もう一つの円の中に叩き付けた。
小さな円の中に現れ、伏したまま顔を上げたのは……。
「……え……?」
私を古くから知っている一番の親友で、クラスメイトの……
「さお……り……?」
聞き慣れた声。くっきりとした縁のメガネ、広い額、ウェーブを描く長い黒髪、清楚さと芯の強さ。間違えるはずがない……彼女だ、フミだ。
「なんで……置いて……」
それだけをつぶやいて……彼女はその頭を伏せさせた。
彼女の大切なメガネが、硬い石床に打ち付けられる音がした。彼女は……完全に気を失っていた。
それに続くように、書見台が倒れる音がした。シセインの声が、とうに途絶えている……そう気づくと同時に、彼女の細い身体が目の前に倒れ込んできた。
力を使い過ぎたんだ。そう気付き、助けに向かおうとするけれど、私の身体も限界を迎えていた。
全身に走る痛みが、私の意識を容赦なく闇に叩き込んでいく。
射し込んでいた月の影が、完全に隠れきってしまう。暗くなっていく視界の中で、バタバタと駆けつけてくる足音が聞こえてきた。
「遅かったか……!」
地団駄を踏むその声は、アリデッドだ。
状況を把握しようとするけれど、聴覚すらも薄れていく。触覚は、ミラ様の膝枕を感じていたが、それもやがて閉ざされた。
最後に残っていた嗅覚に、ミラ様の香りを覚えながら、私はどうにかこれだけを理解した。
(そっか……。私……フミちゃん……喚んじゃった……んだ……)
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