第二部 星を渡る儀式

1.夢の中の親友

「まったく、しょうがないなぁ、沙織は」

 親友のフミの声がする。

 そうだった。私、勉強を教えてもらっている途中なのに、うたたねをはじめちゃったんだ。

 顔を上げると、月野つきの ふみはすぐ目の前にいた。誰も居ない学校の廊下が、森の洋館の時のように、どこまでも伸びている。私たちはお互いの机を突き合わせ、二人きりで向かい合って座っていた。

 私は両の手のひらを合わせて、必死に謝った。

「ごめん! このところずっと、歩きづめだったから……!」

「わかってる」

 穏やかで、優しい笑みを彼女はくれる。この子は芯が強くて頑固がんこなところもあるけれど、とても優しくて、滅多に人の悪口を言わない。ごくたまに、すごく毒のある皮肉は言うけれど。

 細めた瞳を、くっきりとした縁のメガネが大きく見せる。その上に広い額があって、その先で綺麗なウェーブを描く長い黒髪は胸元まで流れている。

 清楚で大人しそうな見た目は、今どき珍しい、なんてよく言われるらしい。

 電車では痴漢とかに気をつけてよ、と言ってみたことがあるが、沙織の方が心配よ、と返された。

 そう、フミはいつでもしっかりしている。いつかの夏祭りの時、夜道で危なそうな人たちに絡まれたことがあった。その時も、フミはすぐに表通りの人たちに助けを求めて、あとで駆けつけた警察にもてきぱきと対応してみせた。

「沙織を守らなくちゃ、って思ったら、急に力が湧いてきてね。責任感が芽生えさせた母性本能かな?」

 待って、それ、私が頼りないって事?

「そういう側面も浮き彫りにさせてくれた事件だったね」

 笑いながら言ってくれるが、悔しいことに否定できない。こんな風に、言葉は綺麗なままで、無邪気で容赦のない毒を、まれに見せるところがある。

 でも……ホント、フミはいいお母さんになれるんだろうな。他人の世話を焼くのが好きで、相手の気持ちにとても敏感、しっかり者だし、読書が好きだからすごく物知り。

 それに対して、私は……。

 私には、ミラ様の加護の他に、なにがあるだろう?

 いつだって、ミラ様とフミにすがって、生きてきた。

 自分の足でまともに歩こうにも、森の中を数日歩いてきたというだけで、もう全身が痛くて、痛くて、悲鳴を上げている。

 そんな疲れ切った私の様子を察したのだろう。フミが席を立って、私の隣にかがみ込んだ。

「ほら、足、出して」

 椅子をそちらへ向けようとする、そのちょっとの動作だけで、私の背骨や肩甲骨までもが、きしみだす。彼女は私の右のふくらはぎをそっと持ち上げると、その手を淡い紫色に光らせた。

 やっぱりさすがだ、『手当て』の魔法を、もう身につけたんだ。フミの魔力の色は、紫色なんだ……。

「ホント。申し訳ないな……。私、フミちゃんに頼ってばっかりで」

「そんなことないのよ」

 顔を上げて言ってくれるが、どこまでが気休めで、どのくらいの真意が含まれているのか、読めないところも彼女の怖さだと思う。

「教えることで、教える側にも、実力と自信がもたらされるの。それに私、沙織に頼られるの、嫌いじゃないから。ねぇ……覚えてる? 沙織が転校してきた時の事」

 小学生の時の話よね。なんだろう……あまり覚えてないというか、思い出したくないな。すごいショックなことが続いた直後だったから。

 渋っていると、フミはまぶたを閉じて笑みを浮かべる。

「沙織ったら、悲しそうな目で、おびえきってて……自己紹介の声が、すごく震えてたの。その時ね、私の身体をいかずちにも似た霊感れいかんが駆け抜けたのは。ああ、これが本で読んだインスピレーションという体験ね、って」

 ときどきこうして難しい表現を口にするフミちゃんだけど、あれ、それって恋心が芽生えたってこと?

「うーん、ちょっと違うかな? より広汎的で、それでいながら限定的ね」

 私の足をそっと下ろしたところで、大きな鐘の音が、遠くから響いてきた。学校のチャイムでも、お寺の鐘でもない。たしか、この街の大きな灯台から聞こえてくる、時間を告げるためのもの。

「なにかあったら、私をしっかり頼ってね。いつか、沙織がさめたとき、私は沙織のミラ様の……」

 鐘の音が大きくなる。とたんに私の身体が重くなり、目の前にかがみ込んでいたフミの姿が、廊下の果てへ向けて遠のいていく。

 思わず差し伸べようとした右の手が、柔らかい布団によって阻まれる。

 うぐぐ、剣を振り回したときの手の痛みが、まだ少しだけ残っているなぁ。骨やすじを痛めてないといいけれど。

 そんな事を考えているうちに、ぼんやりとしていた頭が覚めてきた。

 そうだ、ここは新しい街の、大きな条約機構支部だ。

 港にある大灯台からの鐘が、鳴り止んだ。

 隣のベッドから、シセインが悪夢にうなされている声が聞こえる。

 この街にたどり着いて、一晩眠った後の、朝。

 私はゆっくり身を起こし、全身の疲労感を確認する。

 泥のように眠った後なのに、まだ疲れはとれきっていない。ただ……フミが『手当て』をかけてくれた右のふくらはぎだけは、痛みが和らいでいるような気がした。

 彼女にはもう、夢の中でしか会えない。ここは遠く離れた異世界なんだ。

「……キョウヤに会いに行かなくちゃ」

 朝になったら、接見せっけんさせてくれるという話だった。

 私を喚んだアイツは、今……支部の中に設けられた牢にいる。

 どうしてそうなったのか、これからどうなるのか、聞かないと。

 窓から街の空を見上げると、深く垂れ込んだもやの先に、大灯台の高く黒い影がかすんで見えていた。

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