6.大切なひと欠片

 彼女の父親は、時計が七回鳴ったら帰る、と少女に約束していた。

 しかし、時計がこのように破壊されてしまった以上……もうその時が訪れることは、ないのだ。

 涙をこぼしている少女を目の前にして、私は、身じろぎ一つすることもかなわない。

 胸が苦しくて、思うように頭が回らない。

 迷宮は抜け出せたようだけど、私は彼女に、いったい何をしてあげられるというのだろう?

 彼女を見つけたら、抱きしめてあげると、強く決めていたはずなのに……。

 それはキョウヤも、シセインも同じようだった。ただ、泣きくれる彼女を、遠くからじっと見つめるばかり。どうやって慰めてあげればいいのか、思い悩んでいるのが見て取れた。

 そんな中……アリデッドがゆっくりと身を起こし、少女のもとへと歩みはじめた。

「その通り……キミの両親は、もう、戻っては来ない」

「アリデッドさん……!」

 彼がカーペットを踏むと、その靴が新しい血の足跡を生む。身体のどこかから出血があるのだろう。もしかしたら、あの化け物の尻尾に貫かれて……。それでも、彼は痛みをものともせず、少女に一歩、また一歩と寄っていく。

「クライヤー夫妻は、カルルッカの街の中で、そう……事故に、遭ったんだ」

 アリデッドは嘘をついている。

 その直感は正しくて、後にそのことを訊ねると、こんな出来事を語ってくれた。

 リュミエール神殿の秘密をゲンソウ皇国に売り渡した夫婦が、街で人々に殺されるという事件があったのだそうだ。あまりに凄惨な話だったので、条約機構にもその情報は流れてきたという。

 少女は、アリデッドの言葉を否定しようとしてか、目元の涙を拭いながら首を振ってみせる。

「その時、パパとママに頼まれたんだ。条約機構で、君を保護する……。一緒に行こう、サリサちゃん」

「サリサ……?」

 少女が、心底不思議そうな声を出して、顔を上げた。

「サリサ……? 誰……?」

 怯えきった声で、彼女はしきりにその名前を何度も口にする。

「君の名前だよ」

 優しく告げて、アリデッドはゆっくり手を差し伸べる。そして、手のひらに握っていた小さな欠片をひとつ、少女に見せた。

「このひと欠片を……守るだけで、精一杯だった」

 それは……さきほどの迷宮に飾られていた、彼女の記憶を描いた絵画の断片。

『愛しの小里咲さりさ

 化け物が食い散らかしていたあの絵から、アリデッドはそれを守り切ったのだ。

「小さな里に咲いた花……君はそう名付けられた」

 言いながら、優しく差し出すと……破片は淡く光りながらそっと浮かび上がり、サリサのもとへ吸い寄せられていく。そして、小さな胸の中にゆっくりと入り込んでいき、もとあった場所に収まるかのように、静かに消えた。

「私……小里咲……」

 自分の名前を口にして、彼女はまたぽろぽろと温かい涙を流し、その場にくずおれる。

 こんな時は……そうだ。

 私は剣を手放し、足音を激しくさせないようにしながら駆け寄り……彼女の前に膝をついて、その小さな頭を抱きしめてあげる。優しく、そして強く。

「サリサちゃん……」

 彼女も頷きながら、自分のその名を何度も口にする。

 大好きな両親から授かった、自分の名前。

「とても可愛い、素敵な名前……」

 私がもらった名前にも、こんなふうに強い思いが込められているのだろうか。

 きっと、そのはずだ。

 星宮ほしみや 沙織さおり

 私がいじめを受け、名前をからかわれたとき。まだミラ様に出会っていなかった私は、自分の名前をノートの端に書き留めて、その文字に勇気をもらっていた。

 この子はきっと、立ち直れる。自分の名前をよりどころにして。


 私たちはそれから、サリサの館で一日だけ身体を休めた。食事を摂って、睡眠を取り、薬をわけてもらい、傷の手当てをして。

 そして最後に館にお別れを告げて……サリサを伴い、街へ向けて出発する。

 私とアリデッドが先に歩き、館から距離を取ると、サリサがあとをついてくる。しかし彼女は、玄関が視界に収まりきる場所で振り返って……名残惜しそうに、洋館をじっと見つめだす。

「ここには、もう……」

「戻らない方がいい。いつかサリサちゃんが大きくなって、それを願う日が来るまでは」

 キョウヤとシセインが、近くで彼女を見守っている。

 やがてサリサは、玄関に向かって深く頭を下げて……またこちらへ向けて歩きだした。

「寄り道もしたし、これからはあまり速くは進めないな……」

 目的の街への到着は、ずいぶん遅くなってしまうだろう。

 だけど……私はそれでもかまわないと思っている。

 小さな命を、悲しみと、あの化け物から救うことができたのだから。

 駆け寄ってきたサリサの手を引いて、アリデッドが歩きはじめる。

 なんだか親子のようだと言いたいが、サリサにはまだ遠慮があって、皆ともすこし距離を置いている。心を許しきるには、洋館での日々と迷宮ひとつだけでは、まだ浅すぎるのだ。

 長いようで、まだまだ短い時間だった。

 それでも私は、その間に多くのことを学ぶことができた。

 剣は、ただ何かを奪うために振るうモノじゃない。何かを守るためにも、必要なものなんだ。

 いじめっ子たちのように、自分の楽しみのためだけにそれを振るう人間には、なりたくない。でも……この手で、剣で、悲しむ人を救うことができるのなら。少しだけ、剣を真面目に学んでみたい、そう思うようになった。

 ミラ様だって、最初はそのように迷いながら剣を手に取ったはずだ。

 そしてミラ様は、その剣によって、数多あまたの栄誉を勝ち取っていったのだ。

 ならば……私にも、できるはず。悲しい過去も記憶にも、打ち勝てるはず。

『すがってるお前……過去を無理に消して、書き換えてんな?』

 あんな化け物には、絶対に負けないから……ミラ様、どうか見ていて!

 深々と茂る森の下草を踏んで、私たちは歩き続ける。途中で行き当たった大きな川に沿って下っていくと、やがて森を抜けた先に、河口に海を望む、大きな港町が見えてきた。

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