3.嘆きの迷宮
(あの子の泣き声がしない……)
視線をあげると、そこは長い廊下のただ中。床を覆う赤いカーペットが、どこまでもどこまでも、視界のさらに先、壁のランプたちの照らしきれない闇の向こうにまで伸びている。
(どういうこと……?)
少女の姿は見当たらない。すぐ脇にいたはずの、キョウヤも、シセインも。
立ち上がろうとすると、とたんに足が震えだす。
これは、ただならぬ現象が起きている。この夢のような状況から、はたして私は、抜け出すことができるのだろうか。
こみあげる、不安と恐怖……しかし、それらに押しつぶされない方法を、私は知っている。
「ミラ様……」
そっと胸に手を当て、いつもの言葉に勇気をもらう。
「見守っていてください。私、頑張るから……」
廊下の奥の闇を見やると、その奥の方から、聞き覚えのある、かすかな声が聞こえた気がした。
私はしっかり床を踏み、そちらへ向けて歩き始めた。
「ぇぅ、ぇぅぅ……」
声はやはり、シセインだった。薄明かりの中に、うずくまる白っぽい影が見えてくる。
名を呼びながら駆けていくと、それに気づいた彼女が、こちらに向けて這ってきた。
「ふぇぇぇ……」
足がすくんで、うまく起き上がることもできないのだろう。近くまで寄ると、膝立ちの姿勢から飛びつかれた。
「サオリぃ……もうダメかと思ったぁぁ……」
その頭をなでてやって、まずは落ち着くのを待ってから、この現象は魔法なのかと訊ねてみた。
しかし、彼女は泣きながら首を振り、見当もつかない、とこぼす。
彼女を抱きかかえる感触、額を押しつけられた胸の苦しみ、これは、おそらく夢などではない。夢ではないなら……ただ覚めることを願わずに、前に歩き出すしかない。
「キョウヤは?」
「わからない……」
「なら、探しに行かないと。アリデッドさんも」
頬の涙を拭いてあげ、その手を取ると、彼女もどうにか立ち上がってくれた。そのまま腕にしがみついてくるのは拒まない。また離ればなれになるのは、私もイヤだった。
「キョウヤー?」
顔を上げ、大きく呼びかけてみると、その声が廊下に何度もこだまする。返事は……待ってみたけど、聞こえてこない。
「たぶん、だけど」
シセインが小さく声を出す。
「あの子の、悲しみ、嘆きが、この迷宮を生んでる。なにか……出てくるかもしれない」
もしかすると、モンスターのような存在に出会うことになるかもしれないのか。
私は腰にしっかり剣が下げられていることを確認する。
「大丈夫……私と、ミラ様がついているから」
「ぅ、うん……」
まだ不安そうにしている彼女を、ぎゅっと抱きしめて、歩き出そう、とささやきかける。そうしてあげると、彼女は肩の震えをようやく収まらせてくれた。
それから私たちは、ゆっくりと前に歩きだす。
もう一人なんかじゃない。それだけのことで、気持ちがすごく楽になった。それに……ミラ様も見守ってくれている。だから、きっと大丈夫だ。
廊下の先に進み、何度か角を曲がっていくと、左右にいくつもの扉が見えてきた。
茶色いドアが、廊下にずらりと並んでいる。二、四、六、八……たくさん。
「どれが正解だと思う?」
「えっと……」
シセインは口元に指を当て、しばらくまごまご悩んでいたが、
「……サオリが決めて……」
自分では決断できないらしい。
魔法の力をアテにしていたのだけど、仕方ない。
ミラ様に決めてもらうわけにもいかないから、端から開けて中をのぞいてみよう。そう思ったとき、
「沙織!」
声だ。キョウヤが遠くで、確かに呼んでいた。
「キョウヤ?」
応えると、また呼ぶ声がする。それを頼りに、並び立つドアの間を進んでいく。
何度かお互いの名を呼び合って……やがて探り当てた。このドアだ!
「キョウヤ!」
声をかけながらドアを開くと、よろけながら飛び出てきた彼とはち合わせした。
彼もちょうどドアノブに手をかけていた瞬間だったらしい、その手を強くひねってしまったのだろう。彼は手首に手を当てながら……それでも、私の顔を見て、ほっとした表情を見せてくれた。
「沙織……よかった」
「探したのよ、キョウヤ」
「俺もだ。何かあったらと思うと……」
言葉はそこで途切れるが、相当心配していたのは確からしい。ほのかに汗ばんでいる様子が見て取れる。
私も、彼の無事を確認できて、ひどく安堵している。その自分の気持ちが、なんだか気恥ずかしい。
「それに、シセインも」
ついでのように声をかけられた彼女が、小さく彼にうなずきを返す。
「アリデッドさんは?」
「こちらでも見かけていない。おそらく……どこかにいるだろうとは思うが」
アリデッドはまだ、思うように動けない状態のはずだ。はやく見つけて、安全を確保しないと。
キョウヤはシセインの顔をのぞき込んで、私と同じように問いかける。
「……この空間のこと、何かわかるか?」
彼女はただ静かに首を振る。代わりに私が、さっき聞いた言葉を教えてあげた。
「この館の少女の、悲しみと、嘆き? それが、迷宮を生んでるんじゃないかって」
「やはり、そうか……。来てくれ、手がかりになりそうなものを見かけたんだ」
言うなり、彼はこちらを何度も振り返りながら、前に立って歩き始める。私もすがりついたままのシセインを連れて、その後を追った。
ドアの向こうには正方形の部屋があり、四方には同じ茶色いドア。その先はまた正方形の部屋だったり、玄関ホールだったり、闇に続く廊下だったり。階段を上って、また下りて、廊下を進んで、ドアを開け。
「こっちだ」
声を掛けながらキョウヤは迷わず道を選ぶが、こんな複雑な順路、どうやって覚えていられたのだろう? 方向感覚や記憶力では、彼にはかなわないと認めるしかない。
三度目ぐらいの玄関ホールに入り込むと、階段を下りた先に……あの少女の影があった。
「あ……」
思わず駆け出そうとして、左腕のシセインを強く引っ張ってしまった。
小さく悲鳴を上げかけた彼女に謝り、また顔を起こすと、玄関の扉が半分だけ開かれていることに気がついた。
「お留守番してなさい。時計が七回鳴ったら、帰ってくるから」
大人の男の、ややきつい言葉が外から聞こえて、玄関の扉は強く閉ざされた。重く、大きな音が、ホールいっぱいに鳴り響く。
館の少女は、その扉をじっと見つめたまま、立ち尽くしていた。
「あの……!」
シセインをゆっくり引いたまま階段を下り、歩み寄って声をかけるが、彼女は全く返事をしない。そのままずっと、扉の向こうに目を向け続ける。
「今の……お父さん?」
何も答えず、足音に反応もしない彼女に、そっと手を伸ばし、肩に手をかけようとした。その手が……すっと、空を切った。
「え……?」
私の手が、少し薄らいだ少女の影の中に入り込んでいる。
「幻影なんだ」
後ろから、キョウヤの説明が聞こえてくる。これは、本物の少女じゃない、ってこと?
少女はやがて深くうなだれ、小さくすすり泣く。
「あれから何回、七回鳴るのを待ったかな……」
つぶやくその姿が、宙に浮きながら、横に滑り始めた。その影は次第に小さくなっていき……脇の壁に掛けられた、一枚の絵の中に吸い込まれた。
額の中に収められたその絵に描かれているのは、玄関の赤いカーペットの上で立ち尽くし、ドレスの袖で涙をぬぐう少女の姿。
「おそらくこれが、彼女の心象なんだろう」
さっきまで彼女が立っていたカーペットには、涙で濡らしたような染みが小さくついていた。そっと手で触れると、まだ湿り気を帯びている。
私はまたシセインを引いていき、玄関の扉に手をかけた。
「無駄だよ」
キョウヤの言葉も聞かず、ノブに手をかけて押したり引いたりしてみたが……それはまるで壁に取っ手だけが生えているかのように、びくともしない。隙間に手を当ててみても、外からの風をまるで感じない。
「心象ならば、この扉が開くことは、決してないのだろう」
言っている理屈はよくわからないが……彼女の両親はあのように告げて、ずっと帰ってきていないということか。
それを、少女は深く悲しんでいる。
「……助けないと」
あの子を見つけて、抱きしめて、その悲しみを少しでも和らげてあげなくては。
それが、この迷宮から抜け出すために必要な事かどうかは、わからない。関係なかったとしても、泣いている小さな子を放っておくなんて、私にはできない。
私も……あんな風に、泣いたことがあるのだから。
「どっちに居ると思う?」
「……俺はここへ、右手のドアから来た」
キョウヤが私のそばに立ち、玄関から内側を見渡して言う。正面にはさっき私たちが降りた階段、一階の左手と右手にドア。
キョウヤは何も口にしない。どうやら、ここからは進む道を私に決めさせるつもりらしい。
「……なら、左ね」
消去法の他に、なにか根拠があったわけではない。直感は何も訴えてこないし、まだミラ様を頼るような場面でもない。アリデッドをソファに横たえたのは右手のリビングだが、そこはキョウヤが調べてきたものと信じる。階段の上にはもう一つドアがあるけれど、また階段を上るのは手間だ。
なにより……私が道を決めていいなら、迷うより走る方を選ぶ。最初の廊下でそうしたように、手近なドアから開けていくのだ。
「よし、行こう」
私がシセインの腕を引いているうちに、キョウヤが先にそのドアに寄って、開く。
道を決めたのは私なのに……とも思ったが、こんな空間では、ドアの先に何があるか、わかったものではない。彼があくまで私に決めさせ、それでいて先を歩こうとするのは、彼なりの優しさの現れなのだ、そう思っておくことにする。
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