外伝1 小さな里に咲いた花
1.洋館の少女
森の中に踏み入った私たちは、少しだけ緑の開けた場所を見つけて、そこで交代で睡眠を取った。
火をおこし、アリデッドのポーチから出した二枚の毛布で、私とシセインをまず休ませてもらう。夜明け頃にどうにか目を覚ましたところで、今度はアリデッドとキョウヤが就寝。
皆、すでに疲れ切っていた。どうにか全員が動けるようになったのは、昼過ぎになってからだ。
「朝一番で魔法の伝書を送っておいた。今頃、あの通路から街の皆を逃がすために、兵を手配しているはずだ」
そう告げるアリデッドの顔に、いつものさわやかさ、活発さがない。昨日負った傷が、まだ治りきっていないのは見えていた。
しかし、ぼやぼやしていると、街から出てきた人たちに追いつかれてしまう。最悪、まだシセインを引き渡すという手を諦めていないかもしれない。
私たちは急いで食事を済ませ、火の始末をしてから歩き始めた。
体力的にも、精神的にも、シセインの調子が一番心配だった。お嬢様として育った彼女には、一晩の野営というだけでひどい負担であるに違いない。
次は私……と言いたいが、ソフトテニス部で基礎訓練を積んでいただけ、まだ体力がある。それよりも、キョウヤだ。訊いてみると、彼は歴史研究部所属で、しかも部室にほとんど顔を出したことがないという。部活ではもちろん、家でも体を鍛えていたはずがない。男女の身体のつくりの差があったとしても、私の方がよほど丈夫だろう。それでいながら、責任感だけはやたら強くて、こまめに私とシセインの体調を気遣ってくる。
無理に背伸びしているのが、見え見えなのに……。
そんな二人にばかり気を払っていたのが、裏目に出たのだろう。
無理な行軍を先導していたアリデッドが、最初に音を上げてしまったのだ。
「すまない……少し、休もう」
苦しそうに口にするなり、その場に座り込んだまま、動かなくなってしまった。
「だ、大丈夫……?」
うろたえながら手をかざしてみるが、私に治癒魔法など使えるはずもない。シセインが駆け寄って手を添えると、彼がひどい熱を出していると言って小さな悲鳴を上げた。
「ゴブリンのナイフに……毒とか……あったの、かも……」
泣きそうな声を出しながら、彼の脇腹の傷に手を添える。出血はとうに止まり、そこに消毒された包帯を巻いていたはずだが、今見るとそれが赤黒く染まりきっている。
「私がしっかり、『手当て』できなかったから……私、やっぱりダメだなぁ……」
「ダメじゃない! 『手当て』ができるのはシセインだけなの、頑張って!」
この『手当て』の魔法は、自分の傷に使うこともできるが、他人に施す方がはるかに効果が高い。アリデッドが動けないとなれば、今は彼女の魔法だけが頼りなのだ。
私とキョウヤで、彼をなんとか樹のそばに横たえて、張り出た根の上にキョウヤのマントをたたんで置いて、枕にする。
私たちは片膝をついて、シセインが治癒の魔法を施すのをじっと見守り続けた。
木々からこぼれ来ていた傾いた陽が、厚い雲に遮られ、森を深い闇へと落とす。暗がりの中で、シセインの手から放たれる銀色の光だけが周囲を照らしている。
「これは……ひと雨来るかもしれない」
つぶやいたキョウヤの言葉に、慌ててあたりを見渡してみる。草木の呼気が重くなり、湿り気を増しているように思えるが……スマフォを持たない私に、天気予報なんてできるわけもない。
「どう……どうする?」
雨が来なくとも、じきに夜が訪れる。寒さから身を守る毛布はもちろん、食事も水も、アリデッドが動けないと、ポーチから出すこともままならない。
彼はずっと目を閉じたまま、苦しそうな呼吸ばかりを繰り返している。意識があるかどうかすらも、怪しい。
「街まで……まだあるんでしょ?」
そもそも、街の方角はどっちだろう。アリデッドは歩きながら、たまに魔法で方位磁石のような光を手の中に映していたけれど、あれをシセインも使えるのだろうか。
ただうろたえる私を置いて、キョウヤが突然立ち上がった。そして小さな岩の上に飛び乗って、森の奥へ目をこらす。
「灯りだ」
指さす先に、何か見えたのか。
「人家かもしれない」
本当にそうであるなら、雨と夜露をしのぎ、アリデッドを休ませることもできる。有効な薬を分けてもらえるかもしれない
私とキョウヤはアリデッドの両脇を抱えて、彼に振動を与えないよう、細心の注意を払いながら運び始めた。
シセインがマントを回収し、私の魔導具のランプを手にして、足下を照らしてくれる。やはりと言うか、彼女の方が強くて安定した、それでいて繊細な光を生み出せる。
キョウヤの言う灯りは、木々の合間からすぐに見えてきた。幸い、それほど距離はなさそうだ。
「がんばって……お願い」
声をかけながら、私は心の中で必死に祈った。
安らげる場所でありますように。どうかミラ様、御加護を……!
やがて目に入ってきたのは、森の中にそびえ立つ大きな洋館だった。
キョウヤがなんとか様式……と言って驚いていたが、私にもわかる、こんな森の奥に建つにはふさわしくない、
二階建ての屋根の上に、生い茂る木々の葉が覆いかぶさる。白い壁は朽ちているようには見られないが、果たして人が住んでいるのか、疑う気持ちが首をもたげる。
灯火は、その玄関先だけを小さく照らしていた。
その光が……不意に揺れて、下へゆっくり降りていく。
驚いた私は、アリデッドをキョウヤに預けて、走り出した。
(消えないで……!)
光源に駆け寄ると、その下に、まだ幼い少女が立っていた。
歳は、まだ十にも満たないだろう。
長く伸ばした水色の髪、可憐で繊細なレースのドレス、薄い生地の靴下を履き、足を包む靴には宝石があしらわれている。
彼女はその足をふらつかせながら、細い両手で長い棒を懸命に抱えていた。その先端に掲げたランプ……彼女はそれを玄関先から下ろし、油を取り替えようとしているのだろう。
その光源が、激しく揺れて……落ちた!
甲高く鳴り響く、ガラスの砕ける音。
幸いにして、火は一瞬にしてはじけて消えた。ガラスの破片が、少女を傷つけた様子もない。
だが……周囲の明かりが途絶えてしまった。
その闇の中で、少女の青い瞳が大きく見開かれているのがわかる。彼女の目は……あわてて駆け寄った私をじっと捉えていた。
「あ……ごめんなさい!」
声をかけると、少女はおびえて一、二歩と後ずさる。
「わ、悪い人じゃないから! 仲間が傷を負ってて、休ませてあげたいの。お願い……家の人を、呼んできてくれない?」
彼女はその場に立ち尽くしたまま、人形のように整った顔を静かに縦に振る。薄く開かれた小さな口が、なにかを告げた。
それを聞き取ろうと、さらに一歩踏み込む。
彼女は急いで玄関の大きな扉に手をかけ……全身の体重を使って、なんとかそれをこじあけた。わずかな明かりが、隙間から外へこぼれてくる。彼女は扉の向こうに半身を隠して振り返り、胸から先だけをこちらに見せたまま、はっきりうなずいてみせた。
「ど……どうぞ」
確かに、そう聞こえた。そのまま、厚い木の扉を半開きに保って、じっと待つ。
……招き入れようとしてるんだ。
「お邪魔……するね?」
彼女がその小さな身体で支える扉をそっと開き、あとからシセインたちが続くのを待つ。
「私、サオリ。星宮沙織。おうちの人は……?」
名乗りながら訊ねてみると、彼女は悲しそうな目をそっと伏せて、先に立って屋敷の中を進み始めた。
「まだ……」
彼女は寂しそうに、その一言だけをつぶやいた。
扉の内側には立派なカーペットが敷かれ、廊下に掲げられたランプが中を照らしてくれている。彼女のドレスにはフリルがたくさんついていて、ミルクとホワイトのチョコレートであつらえたような配色が可愛らしい。しかし、よく見ると衣装はすっかりくたびれきり、床の隅にはホコリが積もりきってしまっている。
(家の人が、長く留守にしているのかな……)
キョウヤとともにまたアリデッドを抱え、通されたリビングのソファに横たえさせてもらう。
やわらかで真っ赤なソファの布地を、彼の包帯で汚してしまわないように気遣いながら、安静にできる姿勢を取らせてあげる。キョウヤのマントは、掛布の代わりにかぶせておいた。
(家の人が帰ってきたら、全力で感謝を告げないと……)
部屋の中に家具は少なく、生活臭はあまり感じられない。だが、住人はよほど豊かな生活をしている……いや、していたと、私でもわかる。調度品ひとつをとっても、素材は厚くふんだんに用いられ、造りは丁寧で装飾は華美。ただし……そのすべてに、霜のような深いホコリが積もっているのだ。
リビングに据えられた大時計が、重く大きな鐘の音を、六回、打ち鳴らした。私が両腕で抱えても持ち運べそうにないそれは、現実世界のテレビ台のように、部屋の壁の中央に鎮座している。中にはきっと、複雑な機構のからくりが収められているのだろう。
「ごはんの……時間……」
少女は私たちにそう声をかけ、隣のダイニングへと招くように、ゆっくり歩み出す。
「おなか……空いてきた……」
シセインの小さなつぶやきを聞いて、私も今になって空腹であることに気づいた。
「ここは、好意に甘えさせてもらおう」
言いながらも、キョウヤは何かを気にするように、しきりに辺りを見回している。
彼女はこの家で、いったいどんな食事を摂っているのだろう? 誰か、食事を用意してくれる人が、ちゃんと居てくれるのだろうか?
不安は尽きなかったが……腹の虫には逆らえない。私たちはアリデッドを置いて、彼女の後を追った。
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