17.月明かりの丘で
わずかに生える短い草を踏みながら歩くと、アリデッドさんの言葉通り、すぐに小さな川に行き当たった。水量はほんのわずかで、ちょろちょろと流れるせせらぎの音が耳に心地よい。
月明かりを反射して流れる
「大丈夫そうだな」
キョウヤはきびすを返し、今度は出口の脇の坂を登っていく。その先は小高い丘になっていて、頂上からは右手に森林、左手に荒野が見渡せた。ちょうど頂の中央に据えられた大きな岩のまわりは少し開けていて、低木がぐるりと円を描くように取り囲んでいる。鼻に緑の匂いを覚えるのなんて、ずいぶん久しぶりだ。
「ここは昔、
岩に手をかけ、キョウヤが声をあげる。独り言でないのなら、後ろを黙って歩く私への説明だろう。
「街の人々はこの丘を神聖視して、さっき通ってきた地下道を封じ、こちらの方角で森を伐採することもためらった。なんでも……いつか聖なる炎がここを通る……と聞いた」
キョウヤが岩の右手に回り込み、その先を見下ろす。私も岩の左に立って、正面を真っ直ぐに走る、森と荒野の境界を見やる。
「森を抜けた先に、大きな街があるらしい。条約機構の支部もあるそうだ」
そこまでたどり着ければ、どうにか一安心ということか。
街の灯が見えるかと思い、岩の陰から森の方をのぞき込もうとすると、キョウヤの横顔が目の中に飛び込んできた。
彼はその手の中に収めた円盤のようなものをじっと見つめている。
「……十二時を過ぎてしまった」
「もうそんな時間……? 眠いわけね」
岩の向こうで、キョウヤが夜空を大きく仰いだ。なんだかすごく、遠い目をしているように見える。その手に持っているのは、この世界の懐中時計だろうか。確かめようと歩みを進めたら、こちらへ向き直った彼が、正面から見据えてきた。
「星宮さん」
あらたまった声で、言葉を紡ぐ。思わず彼と目を合わせてしまう。
「……誕生日、おめでとう」
突然の言葉に、私は必死にその意味を
「たった今、七月七日になったんだ。本当はこれを、現実世界に戻って、言いたかった」
「……なによそれ」
思わず苦笑がこぼれ出る。
そうか、今日は私の誕生日……この世界の暦のことを調べてなかったから、気づかなかった。
「そのために俺は、現実世界に戻る術を急いで行ったんだ。でも……その儀式は、ものすごい苦痛を伴うもので。そんな時、俺は……星宮さんのことを必死に念じていた。必ず帰って、会いに行こう、って。そのせいで……星宮さんをこの世界に呼び出してしまった」
「……そっか……」
キョウヤは苦しいときに、私を拠り所としてくれたんだ。
私が同じ立場だったら……やっぱり、ミラ様のことを思うのだろう。私は、自分の知らないところで、彼にとってのミラ様になっていたんだ。
……ミラ様を。
私は、何かを思い出しかけた。
あれ。
なんだろう。これはいつの記憶だろう?
(ミラ様……助けて、ミラ様……!)
「……結果として、こんな危険にも遭わせることになってしまった。本当に、申し訳ない」
キョウヤが深く、頭を垂れる。
思い出すのは、やめた。
ワタシはすこし意地の悪い言葉をかけてやる。
「ちゃんと責任は感じてるんだ?」
「感じてるだけじゃない。星宮さんを、必ず現実世界に……そう思って、頑張った。あのときはその、うまく言えなかったけど」
「あれは、そういうこと……」
シセインを暗がりの壁際で脅していたのは、『星渡りの術』について訊こうとしていたのか。
「結局……それも間に合わなかったわけだが」
肩を落とし、目に見えて落ち込んだ表情を浮かべる。
誕生日を現実で、とか。そんなこと、こだわらなくてもいいのに。
「必ず、責任は果たす。なんとかして準備は整える。それで、星宮さんだけでも絶対に……」
「やめて」
強い声で制し、指を一本、その鼻先に突きつけてやる。
「現実世界に帰るなら、キョウヤも一緒」
驚いた顔のまま動きを止めた彼に、背中を向けながら問いただす。
「あなた、この世界に独りきりで永住したいわけじゃ、ないんでしょ。帰りたがってるあなたを置いて、私だけ帰還だなんて、あと味悪いだけじゃない。それに……」
告げながら、顔が熱くなっていくのを感じる。頭の中に思い浮かぶ想像が、たまらなく恥ずかしい。この表情だけは見られたくない。
「……現実世界が、今ごろどうなっているか。きっと、私とあなたが駆け落ち、なんて憶測まで飛び交ってるわよ」
本当にそうなっているかどうか、確かめる術なんて、ないけれど……人間って、残酷な噂も平気で流せる生物だ。そのことを、私はよく知っている。
(あのねあのね、星宮さんってば……)
頭の中に響く、思い出したくもないヒソヒソ声の記憶の数々。私はそれらを振りきるため、頭を振って、また声を上げる。
「実際にこの身に起きたこと、異世界のこと、私だけで説明するなんてイヤ。あなたも一緒に、それを始末してもらうからね。それが……ホントの責任の取り方、でしょ」
言い切ってから、一拍。キョウヤが上気した声で、強くうなずく声が聞こえてきた。
しまった。今のセリフは、まるで告白してるみたいだったじゃないか。
私は慌てて、勘違いされないように言葉を継ぐ。
「言っておきますけど。想いを込めて喚ばれたからって、それだけでなびく私じゃないから。そこは勘違いしないでね」
びしっと告げる。キョウヤのこと、悪く思ってるわけじゃない。でも、相手から一方的に決められる恋なんて、したくない。
「……あなたを選ぶなら、私の意志で。だから、もっとカッコイイところ、また見せなさいよ?」
あの部屋の中での健闘ぶりなんて、暗がりで聞こえた音を頼りに想像するしかない。だけど、コイツはコイツなりに頑張ったはずだ。そこは、ちゃんと評価してあげたい。
それに……苦しいのを乗り切るために、私を支えにしていた、と耳にして。なんだかこそばゆくもあったし、うれしくもあったし。なにより、共感を覚えた。
だから、もう……他人事じゃないんだ。
他人じゃなくても、いいんだ。
「とりあえず……さっきのハッピーバースデーに免じて、ひとつアドバイス。……こんな状況で、相手を名字にさん付けで呼ぶ人には、よそよそしさを感じちゃうから。呼ぶなら、彩織……でね。キョウヤ」
言いながら振り返ると、ひどくうろたえた、頼りない顔が目の前にあった。
「す、すまない……彩織……」
それでいい、と笑み返す。
まったく、世話の焼ける男だ。私は、こんなヤツに喚ばれてしまったのか。
彼もまた、今の私と同じように、心臓をかなり高鳴らせているのだろう。月明かりの下で、汗ばんだ赤い顔を袖口で拭う。
あれ。
「キョウヤ、そのおでこの……」
汗に濡れた彼の髪の下に、たしかに見えた。
刃物で切りつけられたような、傷の跡。
「ああ。これは、昔のだから、大丈夫」
「昔……?」
「……若気の至り、というヤツかな」
言いながらすぐに長い髪を元に戻し、せっかくの整った顔を陰らせてしまう。
「……アリデッドさんのところに戻ろう」
告げるなり、彼は足早に歩き始めた。
置いていかれないように後へ続きながら、私は必死に何かを思い出そうとしはじめた。
なんだろう……まただ。私は、何か大切なことを忘れてしまっている。
思い出したくはない……だけど、忘れてもいけないはずの、遠い記憶。
丘を降りていく二人の足音が、一緒に刻まれていく。身体と心を揺らしながら、ゆっくり、ゆっくり。
小川から吹き上げてくる穏やかな風が、火照りきった顔を徐々に鎮めていく。それがたまらなく心地よかった。
空からは月と、天の星々がもたらす薄明かり。清らかな光が、私たちにそっと降り注ぐ。不安定で荒れた足下を照らすには、なんだか少しばかり頼りないけれど。
……そうか。
小さくつぶやいて、私は小走りに駆け出し……そのままキョウヤを追い越していく。
魔導具のランプ。ミラ様と扉を押し開けた時、足下に置いたままだ。
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