16.守護天使の御手
あの時の私は、もう走ることもできなくなっていた。
地べたに倒れ込んだまま、それまでずっとこらえていた涙をぽろぽろとこぼしていたんだ。
すると、目の前に大きな影が現れた。逆光でよく見えなかったけど、そのおじさんは私に虚ろな声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、疲れちゃったよねぇ……。おじさんと一緒に、楽になろう……?」
そう言って、差し出した手の中がきらりと光った。
……刃物だ!
身体が震えて、言うことをきかない。目を引き閉じたいのに、それすら叶わない。
おじさんが、足を踏み出す。その影が、私の前に落ちようと迫る。
そんな時だった……あれは、いったい誰だったのだろう。一人の男子の背中が、私の前に飛び出した。
そして、その男子は私に教えてくれたんだ。
「大丈夫だ……お前には、守護天使ミラヴェル様がついている!」
「星宮さん!」
呼びかけられると共に、視界に刺さっていた光が遮られた。小人の持つナイフの光を、ひるがえるマントが覆い隠す。
……キョウヤだ!
「走れ!」
アリデッドも、曲がった刀身の剣を手に、前に飛び出る。
二人の声で、現状を思い出した。私たちは通路の奥の部屋で、モンスターに遭遇。ここを切り抜けるために、私がするべきは……。
足に力を込め、床を蹴る。走るんだ。しっかり、走るんだ。みんなのために、出口を確保しなければならない。
金属のかち合う鋭い音が、背後から聞こえる。
シセインの投げた光の球が、床まで落ちたところで、大きな線香花火が落ちたような音をたてて消えてしまった。
柱と棚が邪魔をして、さっきの光は奥まで届かなかったけど……この壁のどこかに、扉があるはず!
ランプを左手に持ち替え、夢中で右の手を前に突き出すと、ちょうど目の前に来ていた壁を手のひらが強く打った。手首に伝わる反動がずんと重い痛みを生むけれど、それどころじゃない。
左手のランプで、壁を照らす。光の強さが、安定しない。その明滅に合わせて、心臓が激しく鼓動している。
(スマフォがなければ、私は光ひとつうまく生み出せないのか)
左の手に意識を送り込みながら、右の手を這わせつつ横に走り、壁を何度も何度も確認する。
あった……! 手の先が、冷たい金属を探り当てた。絡まりそうになる足をなんとか動かし、さらに一歩、横に踏み出す。
背後で肉が裂ける音。鋭く、醜い絶叫。
金属に額を押し付けるようにすると、かすかな明かりを隙間の先に感じた。月の光だ! 外への出口を、分厚い扉が塞いでいる!
扉の形状はさっきと同じ両開きだろうと見当を付け、取っ手を探す。これだ、金属の金具。複雑なそれは、どこを掴めば良いのか分からない。何度も探る右手に、鈍い痛みが幾度も刻まれていく。
もう一歩横に踏み込み、片膝を突いて、光源を近付ける。取っ手は扉を閉めるように固定され……そこにかけられた……。
(南京錠……)
「鍵! 鍵を!」
必死にあげた声が、背後からのうめき声にかき消された。アリデッドだ、傷を負ったに違いない。
今の声に気づいてくれただろうか。ここの鍵を用意してくれているだろうか、それでもダメなら魔法で……。
(アンロックの魔法……!)
錆びきった南京錠を右手で握り、必死に声をかける。
「あなたは錠。閉じられてるの、お願い、開いて! 走って! 走れ!」
叫び終えるなり、錠を引っ張る。しかし、硬く冷たい金属塊はびくともしない。
「お願い、開いて! みんなが死んじゃう!」
すでに傷だらけの手のひらで、力いっぱい、握りしめる。
背後で、シセインの叫びが聞こえてきた。さらに、金属のかち合う響き。
全身に噴き出していた冷たい汗が、床にしたたる。
「お願い……助けて、ミラ様!」
……その時だった。
この右の手を、やわらかな温もりがそっと包み込んだ。
私の顔が、穏やかな光に照らされる。
目を見開くと、錠を握る私の手に、もう一つの手が重ねられている。私と同じ大きさと、形。
光の方へ顔を上げてゆくと、その手の主が微笑んでいた。鏡で見慣れた私の顔と、同じつくり。それでいてしっかり者の彼女は、いつも胸に思い描いていた輝く長い髪を垂らし、ほのかに光る大きな翼を背負う。そして、いつも私に聞かせてくれていた、あの優しい声で、励ましてくれる。
「大丈夫、あなたならできる」
衝撃で、世界から全ての音が消える。
ミラ様は口を開き、ただ「開け」と告げる。私も小さく口を動かして、開け、と命じた。
……カチリ。
錠のはじける音とともに、世界に音が戻る。私は開かれた錠を勢いよく引き抜き、扉に手をかけた。
震える右手に、ランプを掴んだままの左手。うまく力が入らない。しかし、もう一組の両腕が、その扉を一緒に押してくれる。ランプを床に置いて、頭を押しつけ、私たちはさらに力を込める。
やがて扉が、その身にまとう錆をはじきながら動き出し、道を開いた。
外から惜しみなく降り注ぐ、白銀の月の光。さわやかな風が吹き込み、悪臭を洗い流す。
「開いた!」
叫びながら振り向くと、そこにはもう……さっきまで確かに居たはずの、護天星騎士ミラヴェル様の姿はなかった。
息をのむと同時に、背後から重い絶叫が聞こえだした。
さらに身を
空から射し込む月の光を浴びて……その身体が、端から順に石へと変じていく。
その太い剛腕が、脇の壁を打つ。大きな穴がうがたれ、硬くなった毛先とともに、細かな破片を辺りに飛び散らせる。しかし……そいつの足はもう固まりきっていて、どんなに腕を振っても歩みを進めることはできない。
ひび割れるような音を立てながら、石化は止むことなくすすむ。
どうにかその手を、醜くゆがむ顔に当てたところで……ケイブ・トロールは、猛獣のような声を最期に長く残して、大きな石の像へとなり果てた。
奥の方で、小人たちの甲高い叫びがこだましてきた。口々に呼び合うその声たちは、飛び跳ねながら、次第に奥の方へ遠のいていく……。
(逃げ出そうというかけ声だ)
物音が、すっかり引いた。緊張が解け、私はその場にとすんと、垂直に尻もちをつく。
やがて石像の脇を通り、部屋の中からみんなが出てきた。キョウヤがアリデッドに肩を貸し、その後ろからシセインが泣きながら這い出る。
「すまない、助かった」
言いながらも、アリデッドは荒い息をしている。やはり、どこかに傷を受けてしまったんだ。
「間に合って良かった」
言いながら、キョウヤが脇の壁にアリデッドを座らせる。べそをかくシセインがへたりこむと、室内のあの石像がまた目に入った。
石になったケイブ・トロールは、もはや動き出す気配など見せはしない。
助かったんだ、私たち。
……ミラ様のおかげで。
「シセイン君、手当てを……頼めるか。消毒だけでも」
アリデッドの声に我に返ったシセインが、地面を這いながら彼に手を伸ばす。
アリデッドは左の脇腹に切り傷を負っていた。流れ出す血が、石の床に小さな湖を生み始めている。
「俺たちで、辺りを見張ります。……行こう、星宮さん」
キョウヤの声を受けて、私もようやく立ち上がる。
まだ頭がすこしフラフラする……あんな神々しいものを、目にしてしまったから。
右手を額に当てると、甘い香りが漂ってきた。ミラ様は……たしかに、この手を取ってくださった。本当に目の前に現れてくれた。その
空に上がる月は、ほぼ満月。歩き出した私とキョウヤを、ただ黙って見下ろし、照らしていた。
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