9.星渡りの少女
シセインが食事を終えるまで廊下で待ち、私にあてがわれた部屋に彼女を招き入れる。
天窓からは、静かな月の光がこぼれてくる。慣れればそれだけでも歩き回れるほどの明るさをくれるが、月や星の明るさは現実世界と同じだと聞いて、驚いた。現実世界には、そうだ、電気の光という強力すぎるライバルがいるから、月も星も大人しいんだ。
でも、二人で話し合うのにその明かりだけでは心細いので、火種をもらってきて、節約するようにと言われている卓上ランプに火を付けた。
無事に灯がともると、シセインに向き直って笑みかける。彼女も小さく微笑み返してくれた。光に照らされる、それだけのことなのに、なんでこんなにも心が安らいで、嬉しいのだろう。
ちりちりとランプが音を立て、黒いススを少しずつ吐く。私たちはベッドに並んで腰掛けた。
「私の父は……『リュミエール神殿』の、神官長で……」
「神官長……ってことは、すごく偉い人? シセインちゃんって、やっぱりお嬢様?」
「う、うん……」
弱々しくうなずくその顔は、嘘をつける顔には見えない。お嬢様なのは本当だけど、そう呼ばれるのに自分はふさわしいと胸を張れない、そんな表情だ。
「それが、なんであんな……」
空腹で行き倒れたりなんか。その事を口にすると、また彼女の口癖が出た。
「私ダメだなぁ」
「ダメじゃないって。なにか理由があったんでしょ?」
「その……託され、たんです。命に代えても届けるようにと、神殿に伝わる『星渡りの術』を」
「星? 夜の空の?」
「えっと」
シセインはなにかを説明しようと、上に向けて開いた両手を宙に浮かべる。しかし、うまく言葉に出来ないのだろうか、しばらく唸っている。
「あの……えっと。し、失礼します」
彼女は言うなり、ランプの栓をひねり、光を消してしまった。
どうしたのだろう。そう思っていると、彼女の涼やかな声が闇の中に聞こえてきた。今まで耳にしたことのない、まるで呪文のような言葉が紡がれる。彼女のいつもの語り方が嘘のように、一度も口ごもったり、つっかえたりしない。
「走れ」
唯一意味を理解できる単語が放たれると、瞬きする間に、部屋の中に淡い青色の光が広がった。思わず驚きの声をあげてしまう。
「す、すみません、突然。私ダメだなぁ」
「い、いや、そうじゃなくって……」
部屋の中に現れたのは、静かな青い光をほのかに放つ、大きな半透明の球体。シセインが広げた両手の上に、軽い風船のように抱えられている。深い青色で満たされた球の中には、無数の小さな輝く粒たちが浮かぶ。風船の中のソーダ水、あるいは水槽の中にプラネタリウムの像を映したようにも見える。
「これは……魔法の光? すごく綺麗」
「はい。多元宇宙を可視化したモデルです」
いきなり大きな話になったぞ。
「走れ」
また告げると、球の中の輝く粒が、水平方向に渦を描くように回り出す。それと同時に、球の中央を縦に貫くように、淡い光の柱ができはじめる。
「多元宇宙の中央には『星の柱』があって。その周囲を、無数の『
「こずむ、って……この小さな輝く粒?」
「はい。『星泡』の中には宇宙があって、その中に銀河、その中に太陽系、さらにその中に地球があって、その地球に私たちは住んでいます」
途方もない話だ。天文については理科の授業で聞きかじっていたけど、そのさらに上の次元の話か。
『星泡』はつまり、ひとつひとつの『世界』なんだな。この球のどこかに、現実世界と、C世界を表す粒があるのだろう。
「『星泡』の回転速度と軌道はまちまちで、『星泡』と『星泡』が接近して摩擦が生じると、両者の間に雷のようなものが発生します。その時、いくらかの人やモノも一緒に移動することがあります。それを『星渡り』と呼ぶんです」
「じゃあ……『星渡りの術』って、平たく言うと、異世界へ移動する術?」
「は、はい、そうです」
「現実世界にも戻れる?」
勢い込んで訊ねると、シセインは大きく驚き、抱えていた宇宙を揺らめかせた。
「り、理論上は」
それを耳にした途端に、今までずっとしぼみきっていたはずの気持ちが、むくむくと膨らんでいくのを覚えた。
その術を使えるのなら、何としてでも現実世界に帰りたい。やりたいことが、いっぱいあるのだ。平和で、清潔で、安全な生活を取り戻す。親友たちに無事な姿を見せ、家族としっかり抱き合って、食べたい料理、聴きたい音楽、そしてなにより……設定ノートの回収!
思わず意識が飛びそうになっていた私を、シセインのか細い声が揺り起こした。
「あ、あの。足りないんです。エネルギーが。すごいエネルギーが」
そうだ。私はまたしても、目の前の現実に打ちのめされるんだ。
気を落ち着かせて、もとの話題を思い出そうとする。
「その『星渡り』の……えっと、魔法なの?」
「はい、大きな儀式が必要な、大魔法です。この街を包囲しているゲンソウ皇国は、それを欲しがっていて……私の神殿へ攻め込んで……」
少女の声が、じょじょに弱く、小さくなる。それに従って、抱える宇宙も小さくしぼんでいく。
「私が、その『書』を持ってこの街に逃げ込んだから。だから、この街の惨状は……私のせい、なんです」
はぁ?
こんないたいけな少女を狙って戦争?
「そ、その。皇国は、建前では、条約機構が気に入らない、って。この街の遺跡も、儀式のために欲しがってて。でも、やっぱり原因の一つは、たしかに私で……ごめんなさい……」
「いい? シセインちゃん」
きっぱりと、力強く、告げる。その声に押されて、彼女が声を上げてすくむ。おびえきって、縮こまらせた、か細く白い手足。それにあわせて小さく押し込められた宇宙の球が、きゅっと引き閉じた目元を淡く照らす。星の粒の回転が、不安を示すように速くなる。
「あなたは悪くない。ダメじゃない。あなたは……必ず守ってあげる!」
私はその肩に飛びついて、小さな身体をいっぱいに抱きしめた。
小さな悲鳴と共に、宇宙が、消える。闇へ転じた世界の中で、腕の中に捉える、さらりとした衣の手触り、
「私たちが、絶対に」
「私……たち?」
「私と、ついでにキョウヤにも守らせる。そして……護天星騎士ミラヴェル様!」
「ごて……?」
月明かりが静かに、空から部屋へと射し込んでくる。それに目が慣れるまでの長い間、私はミラ様の物語を熱く語り続けた。
「だから……大丈夫なの!」
「ぅ、うん……」
よかった。表情までは見えないけれど、理解してくれたみたいだ。
「それから……」
ささやきかけながら、少し悩んだ。
正直に言えば、彼女の持つ『書』に強く興味を引かれている。安全に使えるモノであるなら、現実世界に帰らせてほしい。
もし、私が欲しいと言い出したら、彼女は応えてくれるだろうか。
……いや、それは弱みに付け込む行為だ。決して許されないことだ。
だから、私は言葉を変えた。
「わかっていると思うけど、その話はナイショよ。もう誰にも話しちゃダメ。シセインちゃんの命が危ない。本当は、恩があるからといって、私に話すだけでも危険なんだから」
「うん……わ、わかった」
薄闇の中でも、抱きしめた首筋の感触で、深くうなずいているのがわかる。
「あ、あの。サオリ……さん」
気のせいだろうか。ささやきを返してくれる身体が、熱を増してきたように思える。
「私の、こと……呼び捨てで呼んで、いいです、よ。シセイン……と」
「うん……私もサオリでいいよ。仲良くしよう、シセイン」
「は、はい。それと……」
息を吸い、言うべきかどうかためらう息づかい。私は静かに、言葉を待った。彼女がそっと顔を上げると、ちょうど射し込む光が彼女の頬に当たる。月明かりは、ほんのり赤みを帯びているようだ。
「ありがとう……サオリ。守って……あげる、って」
熱い吐息を、首筋に覚える。こんな少女が、見知らぬ軍とやらに狙われている。それを黙って見ているなんて、できるわけがない。
私はさらに力を込めて、しかと抱きしめる。
「ぇぅ」
苦しいよ、と本気の泣き声をあげられてしまった。
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