8.食堂とジャガイモ

「いただきます」

 給食の習慣がなくなって以来、すっかり忘れていたこの言葉をちゃんと告げてから、食事に手を伸ばす。

 条約機構支部の食器には、しっかりとした清潔感がある。テーブルにも、いくぶんくすんではいるが、白いクロスが敷かれている。木製のスプーンは、ちゃんとお湯をくぐらせてあるようだ。まだ温もりの残るそれを手に取り、皿の赤いシチューの中からサイコロ状の塊をすくう。

 スプーンにのせた名も知らぬ料理を、唇の先まで運んだところで……不意に、今日見てきたばかりの外の世界を思い出す。こうやって過去の体験から怖じ気づいてしまうのが、私の一番弱いところだ。でも、ここは条約によって守られている空間のはず。ミラ様をそっと念じて、スプーンをそっと舌の上にのせる。

 とろみのある甘いソースの中に、スパイスの強めの刺激が感じられたが、それはちゃんとうまみへと変換されてゆく。軟らかい肉はすこし臭みがあるけど、羊だろうか? そっと肉を噛みしめると、染み出る味覚が頬を刺激して、強い痛みすら覚える。肉の繊維が細くほぐされていく度に、熱と辛さで口の中が温まる。そして、鼻に広がってゆく香ばしさ。食べ物の匂いは、こうでなくては。

 ちゃんとした、食事。私はそれを、世の中に当たり前に、廃棄するほど存在するものだと思っていた。相応のお小遣いか、養育の責任さえ提示すれば、誰かが作って、与えてくれる……そんな風に思っていた。

「あ……あの……」

 らしくない考え事に浸っていたせいだろう。耳にとどいたかすかな声に、気付くのが一瞬遅れてしまった。

「あ……」

 声をかけてきていたのは、外出実習の時の少女だ。灰色のすり切れた服からは着替えて、縫い目の見えない、上下の繋がった長い衣をまとっていた。その色は、透き通るような肌よりも無垢な白。あとでキョウヤに聞いた話では、神官が着るローブだという。

 彼女はしきりに指をもじもじ動かしながら、うつむいたまま話しかけてくる。

「サオリ、さん……です、ね? シセイン……リュミエール、と、申します」

「シセ、イン」

 彼女は素早くうなずいて、その発音で正しいと示してくれる。

 たしか、外の料理屋でも耳にした。その聞き慣れない単語が、この少女の名前らしい。

「透き通った響き」

「この名前……シセインというのは、星の名前から、取ったそうです」

 ほのかに顔を赤らめて、少し嬉しそうに語ってみせた。口調も心なしか、なめらかだ。しかし、その目はすぐに伏せられる。

「どの位置にある星なのかは……教えては、くれませんでした……」

 なんだろう。このかよわさと、はかなさ。慎み深くて、奥ゆかしい。たまらず抱きしめたくなるけど、そんなことすると崩れてしまいそう。私にはないモノを、この子はいっぱい持っている。

「あの。先ほどの、お礼……と、ことの説明を……しておきたく、て……」

 おずおずと申し出る様すら、気品があって、いじらしい。

 是非とも彼女の話を聞いてみたいと思ったが、向かいの席を勧めようとして、すぐに思い止まる。彼女はまだ料理の配膳を受けていない。それに、あの料理屋でのやり取りを思い出したのだ。

 きっとまだ、お腹が空いている。いや、それもあるけれど。

 この子はなにか、重大な秘密を抱えていた。

 それは、この条約機構の中でも隠しておいた方が良いことかもしれない。

「あとで、私の部屋に来れる? じっくり話を聞きたいし。それに……ごはん、まだでしょ?」

 彼女は驚いたように顔を上げ、何度も深くうなずいた。

「う、うん……!」

 この声量を、始めて耳にした。大きくなっても、涼やかで透き通った声。

「なくならないうちに、もらっておいで。一緒に食べよう」

「うん、行ってくる……!」

 小さく頭を下げたかと思うと、配膳の列へすっ飛んで行く。明らかな小走りだったのに、決して裾を乱さず、足音も立てていなかった。どんな訓練をしたら、あんな上品になれるのだろう。

 シセインが配膳の列に並び、おどおどしながら食事を受け取っているのを眺めているうちに、私の両隣の席は職員たちが埋めてしまった。

 夕食時の食堂には、この支部に出入りするみんなが一堂に集まる。様々な肌の色、背丈、風貌。スーツ姿の人も一人だけ居たけど、ほとんどが中東か西洋のファンタジーを思わせる衣装を纏っている。はす向かいに、身体検査と着付けの担当をした女性職員が座った。軽く手を振ると、目を細めながら手を振り返してくれた。

 条約機構の職員の人達は、いい人ばかりだ。そういう仕事なのかもしれないけれど、皆、親切にしてくれる。

 と、その隙をついて、キョウヤが真向かいの席に座り込んだ。

 カバンか、せめて筆箱の一つでもあれば、その席を予約しておいたのに……止める間がなかった。

 それまでじっと止めていたスプーンを口にくわえ、うらめしそうな目をキョウヤに向けてしまう。

「やり直し……だって?」

 そうだ。外出実習は、また後日にやり直すことになったのだ。わざわざ傷をえぐられて、心が深く沈み込む。

「うー」

 手にしたスプーンを唇でみ、どす黒い視線を束ねて、めいっぱい送りつけてやる。

 しかし、キョウヤは鈍感が過ぎるのだろうか。それすらも気に留めず、優しい言葉でさとしてくる。

「失敗することもあるさ。でも大丈夫、きっと巧く出来るから」

 なんだろう、同じ言葉をどこかで聞いたような。少し考えあぐねてから、気がついた。

 ミラ様が私にかけてくれた慰めの言葉に、似ている。

「俺も、ちゃんと最後まで責任を持つ。ミラ様が見守っているならば、頑張れるはずだろ?」

 ミラ様が見守っているなら、頑張れるはず。それを他人に言われたのも、はじめてだ。

 私が今まで接してきた人の中には、ミラ様の存在を笑う人も居た。それどころか、架空の存在に頼り切って、なんとかしてもらえると思い込んでいる、なんて言い出す人だっていた。

 だけど、私とミラ様はそんな安っぽい関係じゃない。ミラ様は見守ってくれるけど、なんでもやってくれる便利な神様なんかじゃない。私自身が、ミラ様に対して恥じることのないよう頑張るから、巧くやっていけるのだ。

 キョウヤは、そこを理解してくれている。口先だけで信じてるわけじゃない。

「当然……がんばる。恥じることのないように」

「よし」

 そう、これだ。なんだか胸の中が暑い。料理のスパイスが、胃の中で効いてきたのだろうか。

 そんな時、遠く離れた席の方から、料理のおいしさに泣いているシセインの声が聞こえてきた。よかった、味覚はある程度共通らしい。

「キョウヤも、食べないと。冷めちゃうよ」

「ああ……」

 うながされたキョウヤが手に取ったスプーンが。皿の真上で、ぴたりと止まった。

「……ジャガイモが入っている……」

 つぶやくなり、その指を細かく震わせはじめた。そしてスプーンを差し伸べ、その先端で丹念にシチューの周りにかかった液体をかき落とし、ジャガイモを発掘する。それから密度と耐久性をテストするように二つに割る。

「やはり……ジャガイモだ……」

 その名を呼びながら、そっと持ち上げて口の中へと含ませる。キョウヤの顔は青く血の気が引いていて、深い絶望、夢の終わり、世界の崩壊を目の当たりにしたかのようだった。口の中で丁寧に噛んで砕き、唾と共に飲み下し、胸に両手をあてがった。

「ジャガイモ、嫌いなの?」

「そうじゃない。むしろ好き……なぐらいだが……。これは、世界の人口、食糧事情、パワーバランス、ひいては歴史と社会構造までひっくり返してしまうはずなんだ!」

 それからキョウヤは、長く、熱く、この一大事件について力説してみせた。しかし残念なことに、私は頭が良くないので、その意味するところをうまく理解できない。

「ジャガイモはある、ちゃんとあるんだ……。それなのに、この世界の文明は中世レベルのままでとどまっている……!」

 泣きそうな声をあげながら、頭を抱えて、その場に打ちひしがれてしまった。

 どうしよう。こんな彼に、私がしてやれることは何だろう……。頑張って考えてみたけれど、結局私には、こんなひと言しか思いつけない。

「ジャガイモ、ひとつあげよっか?」

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