6.ボロ家の老婆

 街の狭い路地を、女性のあとについて歩きながら、私はずっと眉根をひそめていた。

(牧場の匂いだ)

 最初はそう思っていたが、すぐに考え直した。牧場どころじゃない。街にただよっているそれは、ひどく不衛生なモノたちをありったけかき集め、強い日射しのもとで練り混ぜた空気だ。

 路地のあちこちに、灰色の泥の塊が落ちている。踏まれてすり潰されたりしているそれは、家畜かなにかが落とした『アレ』かもしれない。

(こんなトコロで、生きていくのかな)

 そんな考えは、失礼かもしれない。でも、鼻の奥を絞っても脳にねじ込まれてくる臭さが、私に遠慮なんてものを放棄させる。

 道の両端には、黄土色の石を積んで造られた、平屋の家屋が建ち並んでいる。木戸はいずれもかたく閉ざされ、人通りがまるで見当たらない。絶え間なく吹き付ける乾いた風と、砂の流れる音ばかりが聞こえてくる。

 たどり着いた家は、その中でもひときわのボロ家だった。割れて抜け落ちた壁の石には詰め物もせずに、布をかぶせて覆っている。

 狭くて小さな、割れた古い木戸を押し開けて、女性が先に中へと入る。私もそれに続こうとした。

 そしてまずは、お邪魔しますの声をかけようとしたのだが……先に出鼻をくじこうと飛びかかってきたのは、意地の悪そうな老婆の叫びだった。

「食べ物をもらいに行ったんじゃなかったのかい!」

 苛立たしそうに、杖で石床を叩く音。その響きに怖じ気づいて、私はすっかり挨拶のタイミングを逃してしまった。

 それに加えて、室内にこもっていたひどい悪臭が襲ってくる。思わず顔を歪めてしまったのが良くなかったのだろう。

「そいつは、誰だい?」

 私をみとめて、老婆はあからさまに不機嫌な声をあげた。

 名乗らなくては。私は胸に手を当て、軽く頭を下げながら口を開いた。

「あ、あの。星宮彩織と……」

「誰なんだい、と訊いてるんだよ!」

 また木の杖で床を打つ。その響きに、親か先生に叱られたかのように、思わず目を引き閉じてあごを引いてしまう。

「このお方が、ミルクをくださるように、お願いして下さったんです」

 女性が腰を低くしながら優しく告げると、老婆は、ふん、と鼻を鳴らした。

「ミルクかい……」

 そうか。この人は、私の名前なんかじゃなく、自分にどういう利害がある人間なのかを問うていたんだ。

 老婆の悪態に、女性は慣れきっている様子だった。振り返るなり私に頭を下げて、優しい声をかけてくる。

「今、お茶をお淹れします」

「あ……。お、おかまいなく。赤ちゃんを、先にしてあげて」

 手振りを交えながら制すると、彼女はまたも深く頭を下げた。そして狭い室内に据えられたテーブルに赤ちゃんを乗せ、おしめの交換を始めた。

 その間も、腰回りの汚れが不快で仕方が無いのだろう。赤ちゃんは大きな声を上げて泣き続けていた。

「うるさいもんだろう?」

 老婆が、ようやく私に顔を向けて声をかけてきた。しわだらけの顔の中にはめられた、濁った瞳が不気味に光っている。

「ええ、いえ。大丈夫……」

「わがまま放題言ってばかりだった子が、突然、赤ちゃんなんてものを授かっちまう。赤ちゃんってのは、理不尽だよ。ミルクくれ。オムツくれ。自分の要求ばかり突きつけて、こっちの都合なんざ聞きもしない」

 女性の方をちらりと見やると、彼女は申し訳なさそうな表情のまま、黙々と赤ちゃんからおしめをはがす作業をしていた。

「その突きつけられる理不尽と、赤ちゃんに対する責任感で、人はようやく大人になれるのさ……。ヒヒ、世の中、巧く出来てるじゃないか、え?」

 言って、老婆は意地悪な高笑いをあげた。

 理不尽なのは、老婆の言葉だ。

 なんで、助けてあげた人の家で、こんな話を聞かされなければいけないの!

「し、失礼します!」

 気がつくと私は、身をよじって、家の木戸を引き開けていた。そのまま逃げ出すつもりも、見捨てるつもりもない。

「ちょっと、そのあたり走ってきます!」

 かっかと煮えたぎる頭を冷やすために、そして耐えがたい悪臭から逃れるために、外の空気を吸う必要があると感じたのだ。

 驚き、引き留めようとする女性の姿が、一瞬だけ視界の隅をかすめた。彼女が赤ちゃんを取り落としていないことだけ確認して、私は地を蹴って駆け出す。

「すぐ戻ります!」


 いつだって私は、気に入らないこと、苛立つこと、もやもやすることがあったら、走ることにしている。

 かぶっていたフードなど、はね上げる。ポニーテールが背中で揺れる。

 たい肥の匂いも、転がる砂も、何もかも蹴って、かなぐり捨てる。

 腹式で息を二回吸い、二回吐く。部活で二ヶ月続けた走り込みで、基本だけなら心得ている。詰まりそうになっていた息が、心が、はじける感触。そして、酸素を取り込まねば死ぬ、その緊張が、無理にでも気持ちをハイにする。

 朽ちかけた建物の並ぶ、言うなればスラムという地域なのかもしれない。でも、そんなこと構うものか。その辺りを一周走って、このぐちゃぐちゃを吹き飛ばさないことには、やってられない。

 あの赤ちゃんは、老婆にとっては望んでいない子なのかもしれない。それにしたって、あんな仕打ちはないじゃない!

(なによ、なによ、なによ!)

 わがまま放題って、なによ。

 たしかに私も、両親にわがまま放題言って育ったけど。

 突きつけられる理不尽って、なによ。

 私の理不尽は、キョウヤの突きつけてきたこの異世界で……

 ……その行き着く果てに、いつかこの世界で赤ちゃんが出来たり……

 いやいやいや!

 思わず浮かんでしまった想像が、死にたくなるほど恥ずかしい。

 まだそういうの、早いから! キョウヤとは、そういう生々しい関係じゃないから!

 巧く出来てるとか、なんとか、あんな婆さんの言葉なんて、に落ちないから!

(こんな気持ちの時、どうすればいいのか……)

「助けて……」

 いつもの、守護天使様の名を呼ぼうとした、その時。

『助けて、ミラ様!』

 脳の中に突然、私がそう叫んでいる姿が、浮かび上がった。

 これは、いつの記憶だろう。

 そう遠い昔のことじゃない気がする。

 いつの、何が起きた時の事だろう?

 思い出そうと、それに気を取られた瞬間に。

 どんっ。

 曲がり角で、人を、跳ね飛ばしてしまった。


 最初の感触は、『とても柔らかい』だった。

「ぇぅ」

 小動物が踏み潰されたような、気の抜けた声があがった。

 その声の主は、跳ねるように飛んだあと、地面をしばらく転がって、動かなくなった。

(……しまった!)

 あわてて、足にブレーキをかける。地面の上を滑ると、派手に土煙が舞った。身体を斜めに傾かせながらなんとか止まって、急いで振り返る。

 風に流されてゆく砂埃すなぼこりの中に、灰色の布を纏った人影。それが地に伏したまま、動かない。

(まずいかな、これ……)

 おそるおそる近づいて、相手の無事を確かめる。

 身体の大きさとラインから、おそらく私と同じくらいの歳の少女だ。

 全身を覆う上下とも灰色の着衣は、しっかりとした縫製ほうせいのようで、地面に転がった細身を守ってくれたように見える。めくれたフードからこぼれているのは、とても長く、鮮やかなつやを持つ白銀の髪。ほつれも歪みも見当たらない、サラリと伸びるその毛先が、あられもなく地に伏す少女の顔を隠そうと散る。しかし広がる銀の糸も、あてがった細い両の手先も、胸元のすべては覆いきれない。はだけた布の隙間から見える、純白の素肌。貧相な体格が、かえってなまめかしい。

 その胸がかすかにふくらんで、苦しげな声を漏らした。いけない、凝視している場合じゃない。

「ちょ、ちょっと……大丈夫?」

 かがみこんで、ためらいながら二の腕に触れ、それからそっと肩に手をかける。薄布ごしに感じるしなやかな身体は、最初の瞬間だけ冷たさを、それからほのかな温もりを伝えてくる。細い顔をのぞき込むと、薄く開いたまぶたの間に、弱々しそうな灰色の瞳が鎮座していた。

 少女は小さな口からかすかな息を継いで、涙交じりの小さな声を、そっと絞り出す。

「ぉ、ぉ……。ぉ……」

「お?」

「おな、か……」

「痛いの?」

(どうしよう、傷物にでもしてしまったら……)

 全身から冷たい汗が噴き出す。今までどこに潜んでいたのだろう、騒ぎを聞きつけて、辺りに人影が現れはじめた。

 この世界には、救急車なんてものは、まずないだろう。満足な治療も、適切な薬も、手に入るかわからない。

 あるかもしれないのは……キョウヤが言っていた、破傷風はしょうふうという、小さな傷からでも死んでしまう病。

「しっかり!」

 声をかけ、彼女のこぼすかすかな言葉を聴き取ろうと、その小さな口元に耳を寄せる。

「おな、か……すい、て……。もう……だめ……」

 緊張がはじけて消える音と、彼女の腹の虫の声が、同時に聞こえたような気がした。

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