5.外出実習
翌日は、はじめての外出実習。
私はこの日、はじめてC世界の一般的な衣装というモノを身にまとった。
今まで、寝る時と下着だけは別として、学生服を着たきりにしてしまっていた。これだけ肌触りの良い衣類は、この世界ではそうそう手に入らない……というのは、ただの口実で。心のどこかで、現実世界に別れを告げることにも、見知らぬ衣装を肌に纏わせることにも、無意識の抵抗を覚えていたのだろう。
それに、もしかしたら、何かの拍子に元の世界に戻るかもしれない。そのときに困らないように……とでも、考えていたのかもしれない。
そのおかげで匂いが染みついてしまった学生服は、洗濯してもらえることになって、しばらくお別れ。
私の身体検査を担当してくれた女性職員が、この世界の衣装の着付けを教えてくれた。
飾り気のない下着は上下とも高級な亜麻で、紐で止める。
長いポニーテールは、本当は切った方が良いと言われたが、なんだか惜しいのでそのままにさせてもらい、フードとケープの間から後ろに垂らすことにした。
すべてがまっさらの新品、というワケじゃなかったが、この世界、そして戦争中の状況で、相当質の良い物を与えてもらったようだ。物盗りに気をつけ、目立たないように振る舞うことを念押しされた。
「似合っているじゃないか。素敵だよ」
更衣室を出るなり、アリデッドがそう声をかけてくれたが、どこまでが本心かは探らないでおくことにする。アリデッドの衣装は、膝までの長さがある濃緑のチュニックに、袖だけが長い白の上衣を重ね、首周りに黄色い布を巻き付けている。カーキの緩いロングパンツは、私と同じようにブーツを覆っている。いずれもずいぶんと、砂にこすれてくすんだ色合いをしていた。
「腰の短剣が、どうにも慣れないです」
私が歩く度に、ベルトの左側に着けた銀色の短剣がその重みを主張する。マントがひらめく感触は新鮮で楽しいのに、こっちの方は不安ばかりを覚えさせる。
「キミの身を守る大事な得物だよ。サオリ、剣の扱いは?」
「……武術とかイヤだから、選択授業でダンスを選んだ私に、訊かないでください」
言ってはみたものの、異世界人のアリデッドには何のことだかわからないだろう。ただ、言わんとするところは察したようだ。
「申し訳ないことに、現状、街の中も安全とは言えない。だが、その短剣をうかつには抜かないように。取り返しの付かない大ごとになるからね?」
外出実習に出る私に、キョウヤが教えてくれた話を思い出す。この地域の古い風習では、人に向けて剣を抜いた者は、相手を殺すまでその剣を収めてはならない……とされていた。剣を安易に抜かないようにさせるための、歯止めの掟らしい。今ではだいぶ緩くなっているそうだけど、剣に対する覚悟というものは、平和な日本で生まれ育った私たちには想像もつかない深いものなんだ……と。
正直、私はその話に震え上がった。だけど、剣を持たずに出歩いて、悪い人の好きにされてしまう恐怖もよくわかっている。
「大丈夫です……気をつけます」
緊張はしている。でも、ミラ様が見守ってくれている。
アリデッドはうなずくと、背後の扉をゆっくり押し開けた。
条約機構の施設の、裏手の出入り口。その先からまぶしい光があふれ、飛び込んでくる。それと同時に、相も変わらず砂っぽい風が、吸い込まれるように屋内へ流れ込む。
「本日の外出実習の目的を、もう一度確認しておくよ。外の世界を知り、自立して生きるための初歩的なスキルの習得。危険を避けるため、また助言のために同伴はするが、行き先を決めるのはあくまで自分だということを忘れずに」
静かにうなずいて、右の腰に提げた巾着袋をしっかり確認する。そこには、条約機構から今日のために支給されたお小遣いが入っている。このお金で、なにかひとつ買い物をするのが、今日の課題。
はじめてのおつかい……というと子どものようだが、いつか私たちは、条約機構を離れて生きていかなくてはならない。
現実世界のように、お店にレジと監視カメラが置いてあって、コンピューターが商品と値段の管理をしていて、不正があれば警察が動いてくれる……そんな世界などでは、ない。詐欺、ごまかし、まがいもの、盗み、ぼったくり、かどわかし、傷害、殺し、エトセトラ……そんな危険に対処できる能力も、養っていかねばならない。
アリデッドの背中について、支部の建物の外に踏み出す。緊張のせいか、照りつける太陽のせいか、額に汗がにじむ。日焼け止め……なんてワガママを言える世界じゃない。フードを少し深くかぶり直して、直射日光から顔を守る。
狭い庭を抜け、門の外をのぞき見ると、わずかにいびつな直方体の、石造りの建物たちが並んでいる。これが、カルルッカの街並み。ここから先は、私が前に立って歩く。
最初のあの日に、窓からのぞき見たがれきの山は、この一角には見当たらない。戦争の被害が、まだここまでは及んでいないのだろう。
(あの伏した人影を見なくてすむ方角は……)
思い描こうとして、やめた。これは、この世界での記念すべき第一歩。顔を上げて前へ進み続けよう。
(大丈夫)
胸にミラ様を強く念じて、前へ進む勇気をもらう。
そして、一歩外へと踏み出した、その時だった。
「お願いします!」
門柱の陰にうずくまっていた人影が起きあがり、こちらに身を乗り出してきた。肌を隠し切れないボロの貫頭衣をまとい、頭をフードで覆った女性。腕には、小さな赤ちゃんを抱きかかえていた。
彼女が急に起き上がったからだろう、目を覚ました赤ちゃんがむずがって泣き声を上げはじめた。
「ミルクを……ミルクを、どうかわけて下さいまし! この子に……ろくに与えられてないのです!」
突然のことに驚きながら……視線が、赤ちゃんの方へと吸い込まれる。汚れた布にくるまれてはいるが、いつか親戚の家で見せてもらったのと同じ、小さな顔をのぞかせている。柔らかそうなそれをくしゃくしゃにして、肩をよじって、赤ちゃんは必死に泣き声を上げる。まだ生えそろわぬ髪、引き結んだ小さな目、歪めきった口。
その口で赤ちゃんは、なにかの不快を訴えているのだ。聞き入れてもらえないと、自らの死につながる。だから、こうやって眉根を潜めたくなる声をあげるのだ。
そうとわかってはいるけれど……泣き声が耳について、仕方が無い。
母親はただ申し訳なさそうに頭をうつむけて、赤子を抱きしめる。豊かな胸で口を塞がれてもなお、くぐもった声が辺りに響く。
「アリデッドさん……」
助けてあげられないだろうか。そんな思いを込めて、後ろに立つ私の保護者に呼びかける。
「すまないが」
彼は私と女性の間にまっすぐ立ち、あのよく通る低い声で、告げた。
「条約機構は慈善団体ではない。次の配給を待つか、役所の方に掛け合ってもらいたい」
「そ、そこを……どうか……お願いします、この子にために……」
「まって!」
アリデッドの思いもよらぬ冷たい態度に、私はすがるように声をかけていた。
「困っているのよ、この人……なんとか、できない? 赤ちゃんが、かわいそう……」
泣き声が、一段と激しくなった。母親が抱きかかえながら必死にあやし、その声を鎮めようとする。
アリデッドはちら、と私を見返して、困ったように短いため息をついた。
「……条約機構にある備蓄は、あくまで落訪者への備えであって……」
「じゃあ、それを私が買う!」
右手を巾着袋にあてながら、強く言い切る。
私とアリデッドは、しばらくその場でにらみ合った。
密な沈黙が間を流れた。こちらを見定めるように、茶色の瞳ががっちり捉えてくる。私も負けないように視線を投げ返す。ミラ様が、私の背を押してくれると念じたら、怖くなどなかった。
ややあって、赤ちゃんの泣き声がまた一段と強くなった。
それに負けたのだろうか。それとも、こちらの意志が通ったのだろうか。
「……わかったよ」
視線を下げ、やれやれと首を振りながらアリデッドが両の腕を広げる。
「今、取ってこよう。ただし、外出実習は継続する。……しばらく待っているんだ」
言うなり、彼は足早に施設へ向けて歩み出した。
思わず身を引いて道を譲った私は、その大きな背を見送りながら、心の内で安堵と感謝を覚えていた。
正直に言うと、怖れていた。アリデッドが、本当は愛を知らない人間なのではないか、と。職務だから私に優しい顔を見せてきただけで、他人に対する情けというものを持ち合わせていない人間なのではないか、と。
だから、私の無茶とも言えるお願いに応えてくれたことが、心の底からうれしかった。
「あの!」
振り返ると、先ほどの女性が、赤ちゃんを胸に抱きながらうずくまり、これ以上無いほど深く頭を下げていた。
「なんとお礼を申し上げれば……本当に、本当にありがとうございます」
「そ、そんな……いいの! それより、赤ちゃん大事にしてあげて!」
さっきよりトーンは下がってきたけど、彼女が頭を下げている間も、赤ちゃんはずっと泣き続けている。よほどお腹が空いているのかもしれない。
と、赤ちゃんを包む布からなにか液体がこぼれ落ちた。
同時に、むわっとたちこめる匂いが、私の鼻に届く。
「あら、いけない……おしめが」
「オムツ? オムツ替えなきゃいけない?」
さきほどから赤ちゃんが強く泣いていたのは、こっちが原因だったのかもしれない。
「どう、どうしよう……この辺りにトイレとか……」
言ってはみたものの、公衆トイレにオムツ交換台なんてものが、この文明に存在するのだろうか。女性も、替えのオムツを持参している様子はない。子育ての経験など何一つ無い私は、ただうろたえるしかない。
女性は私にぐいと歩み寄ると、私の腕を強くつかんだ。
「替えに戻らないと……。よろしければ、我が家へお越しください。何もありませんが、せめてものお礼をさせて下さい」
「え、でも」
アリデッドは、ここで待つように言っていた。赤ちゃんのケアは急いだ方が良いけど、この人の家がどこにあるのか……。
「すぐそこですから。条約機構の方ならば、場所を知っているはずです。さあ、どうぞ遠慮なさらず……」
控えめに言いながらも、この人、すごい力で私を引っ張っていこうとする。子育てをすると自然に筋肉が鍛えられるというけど、それだけじゃない。性格的な押しの強さを、この人は確実に持っている。
泣いている赤ちゃんを抱える腕で引かれたのでは……私が無理に振り払いでもしたら、赤ちゃんが危険だ。私は思うように逆らえないまま、彼女に引きずられていった。
人気の無い路地を、そのまましばらく、『すぐそこ』まで。それは、ずいぶん長い距離に感じられた。
この女性が嘘つきだったとは、思いたくない。単に、私が慣れない土地を歩いたせいだ。そして、この世界はきっと広くて、大雑把に出来ているのだろう。
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