4.モンスター図鑑

 足どりも軽く、廊下をぐいぐい突き進む。

 きっと、今抱えているこのしらせが、風船のように宙に浮かぼうとしているからだ。

 ミラ様の背に、はじめて純白の羽が生えた瞬間も、こんな気持ちだったのだろうか。

 キョウヤは図書室で待ってくれていた。そうとう待ちわびていたのかもしれない。扉を押し開けた瞬間に、席から立ち上がった彼と向き合う形になった。

「おかげ様で……テスト、通りました!」

 深々と、頭を下げる。キョウヤの手元には書物など見当たらないけど、どうやって時間を潰していたのだろう?

「いや、そんな……。もともとは俺の……」

 責任だから、と言いかけるつもりのようだが、その台詞は口にさせない。

「世話になったら、お礼は言うもの」

 素直に受け取りなさい、という心は伝わったのだろう。彼は恐縮しながらも、うなずいてみせた。

「家庭教師、すっごく助かったんだから!」

 テストの内容を思い返しながら、おだてるように言ってみる。

 始めて顔を合わせた試験官への緊張もあって、口頭試問はかなりの苦戦を強いられた。だけど、キョウヤからもらった的確なアドバイスと、ミラ様の御加護のおかげで、どうにかギリギリの合格点をいただけたのだ。

 感謝というものだけは、決して忘れてはいけない。ミラ様はもちろん、コイツに対しても。

「キョウヤって、勉強できる方だったんだ?」

「いや……俺なんか。成績はいつも中くらいで」

 謙遜しながらそう言うが、中くらいを名乗れるのって、十分すごいことだと思う。私なんて、謙遜を込めたら、成績は下の下の領域だと言わなくてはならない。授業も宿題も、いつも親友のフミちゃんに助けてもらってばかりだった。彼女と同じ高校に入れたのも、フミちゃんが献身的に勉強をみてくれたのと、ミラ様の御加護を信じたおかげだ。

「でも、この世界とか、現実世界について、色々知ってるみたいじゃない?」

「あれは……学校の休み時間にすることがなくて、世界史の資料集を眺めてばかりいたせいで……」

 照れながら長い前髪の先をなでてみせる、その仕草がなんだか、見ていてかわいい。

 コイツと一緒に居るというのも、悪くないのかもしれない。まだ、そうと決めたわけじゃ、ないけれど。

 キョウヤが、私のミラ様を信じるとまで言ってくれたのは嬉しい。その反応はたしかに新鮮だった。でも、彼がいったいどんな人なのか、胸の内で何を思い、考えているのか、私に隠していることはないか……深い仲になるには、まだまだ踏まねばならない段階、知らねばならないことがある。

 知らねばならない、といえば。私は、この次に待ち受ける外出実習のために、学んでおきたいことがあった。

 私はキョウヤの脇を通り抜け、図書室の奥に並ぶ書棚の間へ潜り込んだ。私に責任を持つと告げたあの男も、黙って後をついてくる。

 天井にまで届きそうな高い書棚には、大小様々、色とりどり、装丁の材質すら統一されていない数々の本が並べられている。その全てには、見知らぬ文字が記されているわけだが、条約機構が私に施してくれた『処置』のおかげで、その意味を読解することができる。

「探し物?」

「うん。この異世界で気をつけるべきことを知っておきたいから。ほら、旅行に関するハウツー本に、外国に行く時の常識やマナーを教えるものがあるでしょ?」

 そんな都合の良い本が、ここにあるのかどうかは、わからない。私はフミちゃんとは違って、あまり読書をする方ではなかったので、どれがそういう本なのかという見当も付けづらい。

 そういえば。家庭教師をしてくれたキョウヤと私の関係は、フミちゃんと私にちょっと似ていたな。

 もとの世界での、一番の親友のことを思い出す。肩まで長く垂らした黒いストレートヘアーに、ぶ厚い眼鏡。世話焼きと読書が大好きで、学校の図書室をねぐらのようにしていた。よく物語の世界へ行くことを夢見ていて、私が語るミラ様の話に笑いながら付き合ってくれた。

「こういうの、フミちゃんなら喜んだろうけどなぁ……」

 つぶやいてしまうが、あまり念じていると、帰りたい気持ちにとらわれてしまう。

 想像を断ち切って振り返ると、キョウヤが深くうなだれていた。

「すまない……」

「謝ることじゃないって」

 キョウヤの気持ちは察している。私がもう親友に会えないことに対して、胸に深い痛みを覚えるほど、責任を感じてしまっているのだ。

 私は、そこにつけ込むような悪人には、なりたくない。

 過去の思い出のせいだろうか。

 ともあれ、私は、キョウヤの負担であり続けるつもりはないのだ。

 もし彼が、私の全てに対して責任を取るならば……それは、私を養い続けるとか……結婚とか……。

 ダメだ。

 思考を切り替えよう。

 目にとまった本を一冊手に取って、適当に開いてみる。

『図説世界のモンスター』

「モンスターって、いるの、この世界?」

「ああ。俺はまだ目にしたことはないが、かなりの数が生息しているらしい」

 それは……生きていく上で、ダイレクトな脅威だ。

 開かれたページに目を通してみる。大きな字に、やさしい表現。やや子ども向けに作られた本のようだった。

『ケイブ・トロール。トロール属。遺跡、洞窟内にのみ生息。大きな鼻と耳を持つ、毛むくじゃらの巨人。太陽、または月の光を浴びると身体が硬化し、石となってしまう。ゴブリンなどを従え、身の回りの世話をさせることもある』

 説明の脇には、長い毛に覆われた巨体が線画で記されていた。縦長の大きな鼻、突き出たとがり耳、目元は長い前髪で覆われ、こわばった手のひらをこちらに差し伸べている。

「ねえ。こういうの……私たちでも、勝てるのかな」

 思わず『たち』と言ってしまったけど……どうして一緒に戦う仮定なんだろう。せっかく消そうとしていた想像が、また蘇ってしまう。

「無理だろう」

 陰気な即答に、胸が凍り付く思いがする。

「勇気は暴力を肯定するためにあるんじゃない。無謀をするほど、俺たちは幼くない」

 前髪で片方隠した目を閉じて、何かを思い出すように、彼はつぶやく。

 どうしてそんな言葉が出てきたのだろうか。過去に、何かがあったのだろうか?

 だけど、私に対して責任を持とうという人が、そんな弱気では困る。

「そこは、俺が守ってやるとか……」

 一緒ならば大丈夫だ、とか。口先だけでも、言ってみてほしい。そうすれば、設定ノートへの未練だって断ち切って、この世界で一緒に生きると決意できるのに。それに、私たちにはミラ様もついているはずだ。

「すまない」

 言いながらも、キョウヤは冷静に答えを紡ぐ。

「でも残念ながら、俺たちの身体能力は、この世界の平均にも満たないだろう。ソフトテニス部をやってた星宮さんでも、たぶん」

 なによそれ、と言って、私はむぅとふくれた。

「そりゃあさ、まだ入部したての補欠ですけど」

「そういう意味じゃないんだ。……そもそもの、日常における肉体の使い方に差があるんだ。江戸時代の旅人のように、一日で三十キロあまりを徒歩で歩き続ける……これを何日も、何十日も続けられるかい?」

「キョウヤ君には、無理でしょうねー」

「自動車や電気、水道網に頼ってきた俺たちと、水汲みひとつにも肉体を使って生活しているこの世界の人たちでは、積み重ねてきた運動量が違いすぎる、って事だ。純粋な腕っぷしの勝負では、まず、比べものにならないだろう」

「……そっか」

 理由なしの弱気ではなく、キョウヤは、あくまで論理的に判断しているのだ。

 日常生活で鍛えられているこの世界の人でも、駆逐しきれないモンスターたち。それらとの力の差は、ミラ様の御加護があったとしても、補いきれないのだろう。

「たしかに俺たちは、栄養は良いものを摂ってきた。けど、それが今後は続くわけじゃない」

「じゃあ、じゃあさ……」

 食い下がる私は、なんでもいいから、彼の弱気を否定したかったのだろう。

「この世界に、持ち込める知識を挙げてみない? ほら、現実世界の人が異世界に行ったら、もとの世界の知識をうまく使って大活躍じゃない?」

 フミちゃんから伝え聞いた話だから、詳細をよくは知らないけれど、私は必死に訴えた。

「あぁ……まぁ、物語ではよくある展開だ。けど、俺たちには、無理だ」

「なんで?」

「講義で学んだように、この世界の住人は、俺たちのような『落訪者』とその子孫だ。現実世界から持ち込めるものは、既に一通り持ちこまれているだろう。実際、この条約機構の支部の中には、消毒液なんていうすごい文明の産物まである」

「それなら、街も現実世界のように発展してるはずでしょ?」

 今まで見てきた、この世界の姿を思い浮かべる。

 まず、室内の明かりは、基本的に日光に頼る。窓ガラスは存在するけれど、高級品だ。この図書室にはあまり風を入れるわけにはいかないから、窓にガラスがはめられているが、とても小さく、あまり透き通っていない。それだけでは、本を読むためには明かりが足りない。そして、できれば火事も起こしたくない。だから、この部屋には特別な明かりが用意されている。室内の大机に据え付けられた、大きなキノコの傘の裏が、淡い黄緑色の光を放っているのだ。これが、魔法の光……というものらしい。

 それから、アリデッドが最初の日に着ていたスーツは、木綿であつらえた特別製。私のような人を少しでも安心させるために、各世界の衣装を用意しているそうだ。この世界の住民のほとんどは、綿や麻などで編んだ衣装を着る。

 今挙げたものは、私がこの二日間で垣間見た、世界のごくごく一部でしかない。しかし、そのわずかな範囲だけでも、現実世界の知識で大きく変えられそうなのに……。

「何かが、この世界の技術の発展を縛り付けている、そう強く感じる」

 淡い黄緑色の魔法の光が、書棚の向こうからこぼれてくる。それを浴びながら、キョウヤはなんだか遠い目をして語る。

「それを変える力を、俺たちは持たない。ただの、流れ着いた多数のうちの一人でしかない。俺たちは……物語の主人公なんかじゃ、ない」

 物語の主人公なんかじゃ、ない。

 あまりにも寂しそうな声。そのひと言だけで、私が知らないキョウヤの数日間が察せられた。

 変えようとしたんだ。

 キョウヤも何かを持ち込み、この世界を変えようとして……そして、何も出来ないと悟ったんだ。

「……本当に、ないの? 私たち」

「……あるとしたら」

「あるとしたら?」

破傷風はしょうふうなどの予防接種を受けている」

 それからキョウヤは、防疫ぼうえきという技術の素晴らしさについて語っていたようだけど、私の耳には届いてこなかった。

 結局のところ、私が必死に否定したかったのは……自分の無力さと、特別な存在なんかじゃない、という非情な現実だったのだろう。

 だけど……。

 胸に、そっと両の手をのせる。そして、守護天使様の御姿を強く念じる。

 私は、私の特別を信じたい。

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