2.閉ざされた扉

 最初の部屋に戻ると、床には小さな川が出来上がっていた。その水源……サイドテーブルの上で転がっている水差しを、私はそっと、起き上がらせてあげる。

 その時、音もなく、丸い天窓から明かりが射し込んだ。斜めに降り注ぐ淡い光の先には、床の上に、純白の天使の羽根が、一枚。私がいつもスマートフォンにかけているカバーの、表面に施された意匠が照らされて、そう見せているのだ。

 高く鳴りだしてしまう小ぶりな胸に、左手をそっと押し当てる。鼓動を鎮めさせながら、小さな川を慎重に渡る。そして大きく震えだした両の腕をそっと差し伸べ、手の内にスマートフォンを収めた。

(ミラ様の御加護だ……)

 手になじむ重み。この機械の板の中には、ミラ様にまつわるいくつもの伝説が、私の手によって刻み込まれてきた。

 さっきまで眠っていたベッドの上に、私はぺたりと座り込んだ。あの時、スタートラインのように蹴ってしまったというのに、その脚は私をしっかり支えてくれる。

 すぅと息を吸い、深く、祈りを捧げる。そして、スマートフォンをしっかり握ったまま、起動ボタンをそっと押し込む。

 強く、短く、電子音が響いた。画面に光が閃くようにあふれ……そして、消えた。

 起動ボタン。反応がない。起動ボタン、起動ボタン。長く起動ボタン。もう一度……。

 つや光りする黒い画面は、闇の中に私の青い顔だけを淡く映す。ボタンは押さえつけられる度に、小さくうめくだけ。

 先ほどあふれた一瞬の光は、現実への扉の、最期の輝きだったのだ。

 天窓から注ぐ光が絶えた。私は真っ白な掛布に顔をうずめた。

 決して泣いてなんかいない。これは、まぶたの裏に焼き付いた、スマートフォンの残像を見ているだけだ。

 あの瞬間に表示されたのは、メッセージを受け取ったという通知画面。そして、親友のフミちゃんからの、短いひと言。

『彩織ー、今ドコ?』

 私を探す声だ。

 それが遠のいて消えるまでの数秒間、肩を震わせながら、機械の板きれを必死に抱きしめていた。

 掛布からはずっと、冷たい消毒液の匂いがしていた。


 キョウヤの気配が、そっと部屋に入ってくる。掛布の端を少しだけ沈ませ、のぞき見る。彼はその場に両膝をついて、心底申し訳なさそうに、黙ってうつむいてみせた。

『俺が、星宮さんを喚んでしまったんです』

 先ほどコイツは、たしかにそう言った。

 だから、自分が責任を持つ、と。

 スマートフォンを片手で胸に押し当てたまま、ゆっくり上体を斜めに持ち上げ、沈みきった声をかける。

「……なんで私なの?」

 キョウヤはぽつぽつと、抑揚の少ない声でそれに答える。

「こないだの、ソフトテニスの新入生対校試合。観に行った時さ。一試合だけだったけど、頑張ってる姿を目にして。ああ、もうすっかり……」

「そこは、ずっとキミだけを見ていた、って言ってよ!」

 なんでそんな噛みつき方をしたのか、わからない。だけどキョウヤは、

「……すまない」

 言いかけの言葉を引っ込めて、そっと頭を下げた。

 馬鹿だ。

 もっと、強く焦がれる想いで喚ばれたのなら、あきらめもつくのに。

 コイツの淡い気持ちのせいで、私は異世界に連れてこられて、失ったんだ。穏やかすぎるけど、平和な日常。家族、友人、クラスメイト。暖かい寝床、良い香りのキッチン、お気に入りの店。ささやかなお小遣い、集めてきた宝物、未来の可能性。そして……ミラ様に関する情報を書き留めた、設定ノート。

 フミちゃんのメッセージから察するに、私は行方不明という扱いになっているのだろう。そうなると、家族や警察は、手がかりを得るために私の部屋を捜索するに違いない。そして、机の一番大きな引き出しを開ける。

 そこに大事にしまってある設定ノートは、未完成のままだ。描ききれていない名場面も、直さなくてはならない間違いもある。肝心のミラ様の全身像も、納得できるレベルに到達していない。

 ……今の状態のあれを見られるなんて、耐えられない。

 なんとしても戻って、ノートだけでも完成させるか、処分しなくては。

 アリデッドが部屋に入ってきたので、私は急いで飛び起き、床に両足を叩き付けながら、自分でも驚くほどの勢いで、叫んだ。

「もとの世界に! 帰る方法は!」

「残念ながら」

 アリデッドの、強い言葉の続きを聞きたくなかった。とっさに顔を伏せて、手のひらで口元を覆い、かすれ声がこぼれるのを必死にこらえた。そんな私を気遣ってだろう、アリデッドも途中で言葉を切る。

 ゆっくり身体を後ろに傾け、そのままベッドに腰を落とす。

 ミラ様の優しい両手が、後ろから背中を支えてくれている、そう念じなければ、気を保っていられなかった。

 私はそのまま、うなだれていた。

 どうした配剤か、ベッドに腰掛ける私と、両膝立ちのキョウヤが同時に下を向くと、目の高さが同じぐらいに揃ってしまう。私たちはそのまましばらく、互いの額を突きつけあっていた。


「……それで、ここは……」

 うつむけた顔はそのままで、そっとにじんだ声を出す。靴下の先に覚えるタイルがあまりに冷たいので、ちょっとだけ足先を浮かせて、軽く揺らす。

 向き合い続けるのはなんだか気恥ずかしく思えてきたので、視線をくいっと横にそらした。

「どんな世界なの?」

 なんであれ、日々の食事と、安らいで眠れる場所だけは、確保しなくてはならない。

「えっと……五百年ほど昔に大きな戦争があって」

「歴史じゃなくて、今の!」

 突っかかっていると、それまで事の成り行きを見守っていたアリデッドが、軽く咳払いをした。キョウヤは猫背だけど身長がある印象だったが、アリデッドはそれ以上に背が高い。首を大きくもたげてそちらを見上げると、引き締まった顔が深刻な事態を打ち明けだした。

「詳しいことは、あとでじっくり時間をかけて教えよう。だが、現状は先ほど見た通り……このカルルッカの街は、ゲンソウ皇国こうこく軍に包囲されている。度重なる襲撃の中、補給はおろか、外部との連絡さえもままならない」

「戦争中……ってこと?」

 そうつぶやいた瞬間に、外から腐臭が漂ってきたような、そんな錯覚を覚えた。閉じられなくなった口を、強く手で覆う。先ほど窓の向こうで目にした、伏した人影は、やはり……。

 身体がまた、震えだす。膝が小さく笑って、足がすくむ。いつだってそうだ、私は争いごとが苦手で、不安が多くて、決断力も足りていない。

 だけど……私には、魔法の言葉がある。私を守り、勇気を与え、背中を押してくれる、あのひと言。

 今までだって、それのおかげで、上手くやってこられた。

 だから、この状況に耐えるため。目を閉ざし、手を胸元に移し、異世界の空気をわずかだけ吸って、もう一度、口にする。

「大丈夫……ミラ様が見守ってくださっている」

「星宮さん」

 聖なる言葉の余韻よいんさえぎってまで、なにか言いたいことが、キョウヤにはあるらしい。目を開き、軽くにらみつけてやろうとすると、そんな彼と正面から目が合った。

 よく見れば整った彼の目鼻が、真っ直ぐにこちらを捉えている。それに小さく驚いて、体を引きつらせるように飛び上がると、すぐにまた顔を背ける。

 しかし、彼はその口で、私に向けてはっきりと告げた。

「俺も……天使ミラを、信じる」

 この世界は揺れているのだろうか。それとも、私の心が揺れているのだろうか。誰かにミラ様のことを語ってみせて、そのように言われた事なんて、初めてだった。

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