ワタシの異世界はコイツの責任
和泉 コサインゼロ
第一部 舞い降りた天使
1.土下座する男子
ベッドの前で、青年が土下座している。
身の危険しか覚えない。
寝起きの頭に巡りだした血が、すっと引く。
はねるように飛び起き、白の薄い掛布を引き寄せて、ざわめく胸を押し隠した。
硬いベッドの上に、強く尻もち。目の粗い敷布でこすった手の肌が、痛い。
さっきまで、守られている夢を見ていた。でも、それはとっくに消え去った。
青年に向け、震える視線を落とす。
彼もまた身体を大きく震わせて、声を絞り上げた。
「すまない、星宮さん。……君を、巻き込んでしまった!」
そして、ここは自室じゃない。でこぼこが多く、清潔感にも欠けた、薄い黄土色の壁。保健室とも病院とも思えない。
ならば、事件だ。
敷布を勢いよく蹴って、私は逃げた。
ベッドが派手な音を立てながら跳ねたが、そんなこと気にしていられない。
青年のかける声を振り払い、木のドアをはね開け、外へ飛び出す。
そこは、灰色の石造りの廊下。向かう方角も、靴下の汚れも、床の冷たさも、かまわず全ての力を振り絞り、駆ける。
嫌なこと、わからないことがある時は、こうやって走るのが私のクセだが……今のこの事態は、命に関わる。
手足を振って向かう先から、四角い光。
窓だ!
光のもとへ両腕を伸ばし、窓枠に手をついて、勢いを無理に殺す。
手首にまで伝わってくる反動の生む、痛みとしびれ。冷たくて固い、厚みに富んだ石材の質感。
窓は、ガラスをはめ込める造りをしていなかった。
外へ顔をのぞかせようとすると、吹き込んでくる風が、細かな砂を叩き付けてきた。まぶたを引き閉じ、顔を引っ込めてやり過ごす。
……梅雨明けを待つ日本の空気では、ない。
風はすぐに止んだ。おそるおそる、目を細く開いていく。
どこまでも高く、青い空。少しだけ傾いた太陽の、光と熱とが、じかに屋内に射し込んで来る。
薄く汗をかきながら、細めた視線をそっと地上へ落とす。
左右の端まで広がっている、大きな壁が景色の奥に見えた。その手前側に、石造りの建物が立ち並ぶ。それらの多くが、割れたり、砕けたり。舗装もされていない道の上には、たくさんのがれきが山をなす。その中にようやく見つけた、伏した人影……いや、これは……伏しているんじゃなくて……。
青年が、あとを追ってきた。
私は素早く窓を背にする。脇に、逃げ込める道などない。
息を荒らげた青年の、差し伸べた手が、こちらに迫り来る。
ぎゅっと身体を縮こまらせ……私は、あの言葉を叫んだ。
「助けて、ミラ様!」
いつも私を見守ってくれている、守護天使様。
その神聖なる名を耳にすると、青年は驚き、たじろいだ。
「え……」
その足が、互いの手がわずかに届かぬ距離で、止まる。
片方だけのぞき見える彼の瞳は、大きく見開かれていた。その色は、私と同じ、黒。妙に優しそうな光を、そこにたたえていた。
彼の髪の色も、日本人の黒。後ろは襟足までなのに、前髪はやけに長く伸ばしていて、額と左目を覆うように流している。その特徴的で、陰のある顔つきには、どこか覚えがあった。
ちょうどその時。廊下の奥の方から、もう一人の男の声が飛んできた。
「怯えさせているよ、キョウヤ君」
その言葉を受け、私の記憶が繋がる。
「あなた、もしかして同じクラスの……」
「アマツカサ・キョウヤです」
青年は片手を胸に当てながら、丁寧に名乗った。
彼が背中に垂らしている、つやのない紺色の長いマントが揺れた。日本ではまず見かけない衣装。
「そう、
学校の教室で、その名を耳にしたばかりだ。
「たしか、ここ数日ほど行方不明だ、って……」
ホームルームで担任がそう告げて、皆に情報提供を呼びかけたのだ。
その行方不明の男子が、見慣れぬ装束を身にまとい、目の前に立つ。
黒いロングパンツに、薄水色のシャツ。首にはめた黒のチョーカーが、なんだかワルそうな印象を抱かせている。
私は構えた両の腕をわずかに緩め、おそるおそる、自分の着衣を確認した。この春から袖を通すようになった、高校の女子夏制服。そこに目立って乱されたあとは、見当たらない。
後ろで束ねたポニーテールも、たしかに私が
「見ての通り、ここは異世界なんだ」
「異世界……って」
本当なの? 言葉にしきれない疑念を、視線に込めてぶつけてみる。
その鋭さにも、青年は真っ直ぐ向き合ったまま、言葉を放つ。
「本当に異世界なんだ。西洋ファンタジーのイメージに近い」
嘘をついている気配は、なさそうに見える。
「でも、現実の中世ヨーロッパとは歴史も文化も違うんだ。まず、世界は二つの文明に分かれていて……」
「キョウヤ君。そこの説明は、あとだ」
長くなりそうなキョウヤの話を、先ほども耳にした、張りのある声がさえぎった。
強くてはっきりした低い音なのに、温かくて、威圧感を覚えさせない響き。
声の主は、穏やかな靴音を響かせて、廊下の先からゆっくりと近づいてきた。
光源を窓だけに頼る屋内の暗さに、目が慣れていく。
まず見えたのは、左右に大きく開いてみせた、大きな褐色の手のひら。灰色のスーツを着込んだ姿は、中東あたりから来た若いビジネスマンのように見える。やはり褐色をした彫りの深い顔に、黒い眼鏡。ひげはきちんと剃り、短めに刈りそろえられた清潔感のある薄灰色の髪。
食い入るように観察していたら、深い茶色の瞳と目が合った。
彼はこちらに微笑みを返し、優しく、丁寧な挨拶をくれた。
「おはよう。そして、このC世界へようこそ」
「しー、世界?」
「この世界の呼び名だよ」
白い歯をのぞかせながら、教えてくれる。
そのまぶしさから逃れるように、キョウヤの方へ視線を投げた。光の加減だけじゃない、こちらは顔つきも表情もネクラそう。
「その……アリデッドさんは、このC世界での、当面の保護者になる」
口調も声も、頼りなさそうで、いかにも湿っぽい。
「僕はアリデッド・グラディオラス。『青の条約機構』の職員だ。気軽に、アリデッドと呼んでくれるとうれしいね」
「条約機構……」
「そう。君たちは『青の条約』に基づいて保護される。だから、落ち着いて。そうとう混乱しているようだけど」
「混乱だなんて!」
してはいる。いるけれど、つい、言い返してしまう。
でも、現実を認めさせようとしてか、キョウヤがそっと声をかけてきた。
「星宮さん、今、ミラー様って……」
「ミラ様! 私の守護天使様!」
むきになって、私は叫んだ。
「守護……天使?」
まるで聞き慣れない言葉を聞かされたように、キョウヤがゆっくり声を放つ。
「そう。
英語の発音を教えるように、その名を示してあげる。
何度口にしても、素敵な響き。口から流れ出る度に、私に落ち着きと、そして勇気がもたらされる。
「私にはね……
胸もとに両の手を添え、呼吸を整えて、私は語り出す。母から聞いた、悲しい出来事からはじまる物語。
「でもね、香織は悪しき者の手によって、魔界へと連れ去られてしまった」
妹は、この世に産まれることはできなかったのだ。そのことを告げると、みんな、何かに苦しんでいるような顔を見せ、気まずい空気が流れそうになる。無理もない、私だってそんな事実はあってほしくないと思うし、話していても胸が苦しくなる。しかし、ここからは幸せな話になるのだ。だから私は、まくし立てるように続きを語る。
「だけど……だけどね、魔界に生まれ落ちた香織は、
キョウヤとアリデッドが、顔を見合わせている。あまりに壮大な話に、どう反応していいものか、わからないでいるのだろう。
「姉であるはずの私の方は、いつも自信が足りなくて、力も無くて、悩みながら生きているけど……それを、天界にいるミラ様が見守り、守護してくれているの! だから……何が起きても、大丈夫!」
言い切った。額に薄くにじんでいた汗をぬぐう。私は、うまくミラ様のことを説明できただろうか。不安はあるけれど……もう一度、大丈夫、と胸の内でつぶやく。今、こうしている間も、ミラ様が私を見守ってくれている。
しばしの、沈黙。それからアリデッドが、やや困惑ぎみに口を開いた。
「僕にはまるきり……異世界の話だが」
頭をかきながら、確認するように訊ねてくる。
「……大丈夫なのだね?」
私は強くうなずきを返す。この背に、ミラ様が手を当ててくれているのを感じる。
「……キョウヤ君。彼女は、君が
今度は、キョウヤに向き直って、また確認。
喚んだ……? それって、どういうこと?
訊ねようとして、私もそちらに視線を向けた。その目が、見つめてくるキョウヤと正面でかち合ってしまった。
彼はそっと私から目を逸らしながら、しかしはっきりと、こう告げた。
「はい。……俺が、責任を持ちます」
待って、待って。そのセリフは、なんだか勘違いしてしまう!
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