Easter Holidays 「彷徨」

 ステージの上でライトを浴び、歌っているアンナはとても美しかった。


 酒に酔い、男が眠ってしまうとセオドアはそっと家を抜けだし、夜道をひとり、母親のアンナが勤めるナイトクラブへと向かった。

 一度通りかかったときにあの店だと教えられたことはあったが、セオドアはその店の中には一度も入ったことがなかった。ライトに照らされた看板を見上げ、その下にあるドアをそっと開けると途端に賑やかな音と、たくさんの人の話し声が飛びだしてきた。活気と煙草の煙に満ちた空間を物珍しそうに見まわしながら、セオドアはドアを後ろ手に閉めておずおずと歩きだした。店内は淡く光るブラケットライトに照らされた赤い壁紙に囲まれ、いくつもの丸いテーブルが所狭しと置かれている。どのテーブルにも美味しそうな料理の皿が並べられ、ほとんどの客がビアマグを片手に、奥のステージのほうを見ていた。

 その客たちの合間を縫って奥へと進もうとすると、客のひとりにがしっと肩を掴まれた。「ガキの来るところじゃねえぞ、帰んな」と睨まれ、セオドアは「おかあさんに云われておとうさんを探しに来たんだよ」と答え、男の手を振りきった。また誰かに見咎められないよう、頭を低くしてそっと端のほうへ寄っていくと――いつの間にか曲が終わっていて、次の曲紹介をするが耳に飛びこんできた。

 ステージへ近づこうと急ぐと、ちょうどそこに厨房に続くらしい通路があり、カーテンが開けっぱなしになっていた。セオドアはそこに身を隠し、背伸びをしてカーテンの陰からステージのほうを覗き見た。

 深い海の底のような、緑がかった濃い青のドレスを着たアンナの姿がそこにあった。ぴん、と鳴り始めたピアノ、低く響くコントラバス。マイクスタンドの前に立ち、アンナが歌い始めたのは知らない曲だったが、その歌声と美しく輝いている母の姿を、セオドアはしっかりと心に焼きつけた。アンナの歌う姿だけではなく、ジャズバンドのステージそのものにも夢中になった。

 そして、二曲めが終わったとき――ビアマグを両手いっぱいに持ったウェイターが、カーテンの陰にいたセオドアに気づかず、どんとぶつかった。「うわ!」という声とともにマグの中のビールが撥ねて零れ、驚いて見上げたセオドアは「なんだおまえ! ここでなにしてる」と怒鳴られ身を竦ませた。

 なんかガキが入りこんでるぞ! と人を呼ぶウェイターの言葉にびくつきながら、セオドアはどうしようと焦り、きょろきょろと逃げ道を探すように周りを見た。すると――アンナが、驚いたように目を見開き、厳しい表情でこっちを見ているのに気がついた。

 みつかった! と後退り、その場から逃げだそうとしたが、セオドアはさっきのウェイターとは違う髭面の男に捕まった。

「おまえひとりか? まったく、しようなんて厚かましいガキだ。ここは子供の来るところじゃないんだ、もっとおとなになって、金を稼いでから来るんだな」

 そう説教されながら、襟首を掴まれて入ってきたドアから放りだされると――店の横の路地からアンナが出てきて、セオドアを呼びとめた。

「ママ……!」

 裏の勝手口かどこかから出てきたのであろうアンナがそう呼ばれるのを聞いて、セオドアをつまみ出した男は目を丸くした。

「ママだって? じゃあ……アンナ、こいつぁあんたの息子かよ」

「ええ、そうなの。迷惑かけてごめんなさいね……セオ、どうして来たのよ!」

 厳しい顔をして叱るアンナに、セオドアはしゅんと項垂れた。

「だって……ママの歌ってるところ、観たかったし……それに、あんまり家にいたくな――」

「ひとりで外に出ちゃだめっていつも云ってるじゃない! ちゃんと家にいて、好きな本でも読んでて。このあいだ二冊も買ったでしょ」

「あれはもうとっくに読んじゃったよ……」

 俯いた先に見えるハイヒールの、銀色のスパンコールがネオンの光を跳ね返す。綺麗だな、と思って見ていると、アンナが困ったように溜息をつくのが聞こえた。恐る恐る見上げると、アンナは云った。

「とにかく、もう家に帰って。今タクシーを呼ぶから……」

「ひとりでタクシーなんていやだよ。ここでママの仕事が終わるのを待ってちゃだめ?」

「何時になると思ってるのよ! そんなの無理よ、絶対にだめ。我が儘云わないで、ちゃんと私の云うことを聞いて!」

 タクシーを呼んでもらうわ、とアンナが店のドアを開けたそのとき――

「もういいよ、帰るよ! 帰ればいいんだろ!!」

 滲んできた涙を見られたくなくて、セオドアは駆けだした。


 ぽろぽろと零れ落ちる涙を袖で拭いながら、セオドアはとぼとぼと夜の街を歩いていた。パブやバー、ライヴハウス、ディスコなどが軒を連ねる繁華街は明るく人通りも多かったが、そのメインストリートから横道に入るとだんだんと開いている店や街灯の数も少なくなり、人影もほとんどなくなった。

 そんな暗く寂しい道を歩いていたとき――セオドアは、いきなり暗がりから伸びてきた手に捕まり、細い路地に引っ張り込まれた。

「――んんっ……!!」

 後ろから腹を抱えこまれ、口をもう一方の手で塞がれた。恐怖に顔を引き攣らせ、両脚で地面を蹴りばたばたと暴れるが、子供の力では抵抗しきれるはずもなかった。一瞬、あの男が目を覚まして自分を捜しに出てきたのかと思ったが、「暴れるな、おとなしくしろ……!」と聞こえた声はあの男のものとは違っていた。

 しかし――あの男じゃないのなら、じゃあ今自分を捕らえているこいつはいったいなんなのだろう? あの男と同じことを、こいつも自分にする気なのだろうか――その可能性に気づくとセオドアは恐怖で竦み、動けなくなった。

「よし、いい子だ……おとなしくしていれば、乱暴なことはしな――」

 そのときだった。どすっと衝撃が伝わってきて、セオドアを捉えていた手が離れた。どこかを蹴られたかどうかしたらしい男が低く呻き、よろめきながら振り向いた。「子供になにをしてる!! 失せろ、この変態野郎が!」と怒鳴る声がして、驚いてそっちを見ると微かな逆光に浮かびあがる人影が見えた。その声には聞き憶えがあった――ついさっき自分を店からつまみ出した、あの髭面の男だった。

 セオドアを襲った男は真っ暗な路地の奥へと逃げていき、救けてくれた男はふぅ、と息をついて「大丈夫か?」と声をかけてきた。セオドアはこくんと頷き、「大丈夫……」と返事をした。

 もとの道に戻り、少し歩いて街灯の明かりが届くところまで来ると、男は立ち止まってまじまじとセオドアの顔を見た。

「アンナにそっくりだな。こりゃあ、その……ああいう輩に狙われてもしょうがねえや」

 その言葉の意味は、セオドアにはよくわからなかった。

「えっと……たすけてくれて、ありがとう。おじさん、さっきのお店の人だよね」

「ああ、お店の人じゃねえけどな。俺は、これでもいちおうバンドのベースマンさ。さっきおまえさんが観た、でっかいダブルベースじゃなくってエレキベースを弾いてんだ」

 男はそう云って、へへっと鼻を掻いた。

「なあ、おまえ……セオっつったっけ? ちゃんとかあちゃんの云うこと聞けよ。こんな物騒なところ、夜ひとりで歩いちゃだめなんだよ。さっきみたいな奴もいるし、売人もいるしな。もうわかったろ? さ、家まで送ってってやるから――」

 家と聞いてセオドアは顔を強張らせて俯いた。それを、男はどうやらさっきの出来事を思いだし、今頃震えあがっているとでも思ったらしい。男はセオドアの前にしゃがみ込み、じっと目を見つめながら云った。

「……怖かっただろ、そうだよな……でもな、ひとつ、教えておいてやるよ。おまえみたいな可愛らしい奴を狙う輩はいくらでもいるんだ……ひょっとしたら、また似たような目に遭うかもしれない。今度はちょうど俺みたいな奴がいて救けてもらえるとは限らない。そんなときはな、。酷なことを云ってるようだが、そんなことをしても相手は喜んでエスカレートするだけなんだよ。そのかわり、。口だけでいいならいくら、バックはいくらって金を要求してやるんだ。不思議なもんで、そうすると相手はそれ以上のことはしてこない。うまくすれば、なんだ玄人かって興味をなくしてくれることだってある。最低でもぼこぼこに殴られたり、殺されたりはしないはずさ。いいか、憶えておけよ……滅茶苦茶にされて、ぼろ雑巾みたいには決してなるんじゃないぞ。躰なんか誰にくれてやったってたいしたこっちゃねえ。強くあるんだ、生きるんだ」

 男の言葉は、セオドアの中に希望とも絶望ともつかない複雑な感情を呼び起こした。

「ふっ、こんなこと云っても、まだわかんねえよな……。まあ、できればわからないままでも、憶えとけよな」

 男はそう云って立ちあがり、セオドアの頭をくしゃっと撫でた。――まさか、本当はわかりすぎるほど伝わっているなどとは思わずに。





 夢から醒め、テディは多くの人が往き交う地下鉄のホームをぼんやりと眺めた。そうだった――右手首の時計を見ると、もう五時半を過ぎていた。公園――プリムローズ・ヒルを出てから今度はリージェンツ・パーク沿いにずっと歩き、いいかげん疲れたところで地下鉄の駅をみつけ、一区間だけ電車に乗った。

 わかりにくいチューブマップを眺め、ベイカールー線でオックスフォード・サーカス駅までやってきたが、あてもなく歩いてばかりいても疲れて腹が減るだけだと思い、ベンチで一眠りすることにしたのだ。どうやら二時間ちょっと眠っていたらしい――テディは立ちあがると一回うーんと伸びをして歩きだし、ホームを出て大きな広告ポスターに挟まれた通路を往く人の流れに乗り、地上へと上がっていった。

 外はすっかり日が暮れて、霧のような小雨に車のライトが滲んでいた。コートのフードを被り、テディは有名なブランドショップやスポーツショップなどが立ち並ぶ大通りを、まだみつからない辿り着くべき場所を探すかのように迷いながら歩いた。なんとなく見憶えのある通りを右に折れると、ずらりと飲食店が軒を連ねていた。そういえば喉が渇いたなと思い、財布の中を確かめコーヒーショップでカフェラテをトールサイズで買った。テディはそれを飲みながら、そのままその通りをゆっくりと歩き続けた。

 夜は昏く、雨は相変わらず止まなかった。赤やオレンジ、イエロー、グリーン、青、そして紫――色とりどりのネオンが、まるで闇に侵蝕されまいとするかのように強く輝き、雨粒に光を滲ませていた。気がつくと建ち並ぶ店はカフェやレストランよりもバーやナイトクラブが目立ち始め、往き交う人々も少し雰囲気が違ってきていた。

 きらきらとネオンの光を映す路上にふと立ち止まり、テディは辺りを見まわした。すると、後ろを歩いていたらしい男にぶつかってしまった。「すみません」と反射的に詫びると、その男は平気だよ、と云うように片手を上げ自分を追い越していった――肩と腰に手を添えあって歩いているその二人連れは、どちらも男だった。その男たちは格子窓のついたドアを開け、青一色に彩られた店の中へと姿を消した。テディはなんの店だろうと看板を見上げた。ライトの光に浮かびあがる『 ADMIRAL DUNCANアドミラル ダンカン 』という店名らしき文字の上には、ぱたぱたとレインボーフラッグが揺れている。

 ああ、とテディは気づいた――いつの間にか自分は、オールドコンプトンストリートを歩いていたのだ。つまり、ソーホーの中でも同性愛者向けの店舗が多いとされるエリアである。そのまま真っ直ぐにしばらく歩くと、ごく普通のバーやレストラン、劇場などに混じって何軒か、それらしい派手なネオンの店が点在していた。ある店の前では、小雨に濡れるのも気にせず立っていた恰幅のいいスキンヘッドの男が、こっちを見てなにやらサインを送るかのように唇を尖らせてきた。テディは一瞬立ち止まり、困ったような表情でその男を見つめたが、すぐ足早にそこを通り過ぎた。

 そしてまた少し歩き――広い交差点に出たところでふと、足を止めた。

 道を渡ったところの角に、白い壁に黒いティンバーフレームが印象的な、黒を基調とした落ち着いた雰囲気の店があった。街灯とスポットライトに照らされたオーニングとその上には、金色の文字で『 THE THREE GREYHOUNDSザ スリー グレイハウンズ 』と記されている。本格的に降り始めた雨に目を細め、テディは小走りに道を渡ってその店へと近づき、オーニングの下で立ち止まった。傍にはフィッシュアンドチップスとチョークで書かれた立て看板も出ていて、見たところここは伝統的な雰囲気の、普通のパブのようだ。

「――やれやれ。濡れちまった」

 その声に、テディは振り向き顔を上げた。雨粒の染みこんだジャケットの肩をハンカチで拭っている、髭面の男が立っていた。テディが反応したのに気づいたのか、その男は「坊主、ひとりか? デートの相手にすっぽかされでもしたか」と声をかけてきた。すらりと背が高い、細身のその男を暫し見つめ、テディは少し考えるように首を傾げた。

「デートの相手を、今探してるのかもしれないよ」

 男はおや、といった表情で、探るようにテディの顔をじっと見つめた。

「そうなのか? ……俺は今から食事をするつもりなんだが、一緒に食うか?」

「俺、もう二ポンドほどしか持ってないんだ」

「奢ってやるよ。別に高級ホテルでフルコースを食うわけじゃないしな」

「そう……残念。俺はホテルのほうがよかったんだけど」

 そう云って、テディは男を見つめ返した――なんとなく誰かに似ている気がして、誰だったっけ、と考えていると頭の片隅で声がした。


 ――躰なんか誰にくれてやったってたいしたこっちゃねえ。

 ――強くあるんだ、生きるんだ。


「……商売なら、もっと向こうの通りに立ってたほうがいいんじゃないか? あっちの駅の近くのトイレにだって、持て余してる奴はたくさんいるぜ?」

「そういうんじゃないんだけど……実は、今夜のベッドの当てがないんだ。夕食と、明日の朝食付きのホテル代を持ってくれるなら、あとは煙草代と帰りの電車賃くらいでいいよ」

「朝食付きねえ……お愉しみのほうは、フルコースで?」

「ちゃんとシャワーの出るまともなホテルならね……ああでも、道具を使うような痛いことはいやだよ」

「……いいだろう。行こう」

 男はそう云って頷くと、夕飯はここでいいかと尋ね、いいよと答えたテディに「ウィルだ」と名乗った。

 背後の黒い扉を開け、店内へと促すウィルに、テディも応えた。

「セオでいいよ」

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