Summer Term 「Words of Love」

 甘い香りのする箱の入った紙袋を抱え、ルカはドアの前で一度、深呼吸をした。

 テディはもう戻ってきているだろうか。もし顔を見たら、まずなんと云えばいいだろうか――おかえり。またお土産だよ。キャラメルアップルケーキ、一緒に食べよう――そんなふつうの言葉で、また以前のように過ごせるだろうか。

 今回は別に喧嘩というほどのことはなく、ルカが謝らなければいけないようなことをしたわけでもない。どちらかといえば謝って改めるべきはテディのほうなのだが、そこに話を持っていくとまた同じことの繰り返しになる。

 やはりイヴリンの云ってくれたように、こっちからは何気無く、常に自分がテディのことを想っているのだということを伝えるような態度で臨むのがいいだろう、とルカは思った。うるさい、ほっといて、などと邪険にされても怒ってはいけないのだ。自分がおとなになって、すべてを受けとめ、包みこんでやれる存在にならなければ。

 そう心に留め、ルカは脇に置いたラゲッジに手を置くとよし、とドアを開けた。

「……またか」

 テディは荷物も片付けずに、ベッドに横たわっていた。

 休暇から戻ってくると、テディは疲れ果てたように眠ってしまうことが多い。自分と違ってそれほど遠くに帰っていたわけではないのに、なににそんなに疲れるのかと呆れながら思い――すぐにはっとして、ルカは自分の浅はかさを反省した。

 家族の元へ帰る自分と違い、テディが休暇を過ごすのはホストファミリーの、つまり他人の家だ。距離や体力の問題ではなく、気疲れというやつなのだろう。

 そんなことにも気づけず、テディに向かってどうしてそんなに疲れてるんだなどと云っていたら……そりゃあテディだってまともに答える気になれないだろうなと、ルカは思った。そんなふうに自分は、今までにも自覚のないままテディを傷つけていたのかもしれない。

「テディ……」

 荷物を適当な場所に置き、そっと声をかけてみるが反応はない。テディは制服のシャツのまま、ちょうどベッドに腰掛けていて後ろに倒れこんだような位置で、仰向けになって眠っていた。サイドテーブルにはペプシコーラの缶が置いてあり、足許には膝に抱えていたのが落ちたのか、逆さになったリュックサックがあった。

 ペイパーバックの小説が開いたファスナーから飛びだし、ばさりとページを乱している。それを見てルカはやれやれと本を拾いあげ、リュックサックを手に取った。きちんと本を閉じ、中に入れておいてやろうとして――鼻につく、その独特な匂いに気がついた。

 眉をひそめてリュックサックの中を覗きこむ。そこにはペイパーバックがあと二冊とペンケース、財布とキャンディの袋、いつもの煙草と使い捨てライター、そして――鎮痛剤の赤い箱が四つ、入っていた。

 ひとつは雑に箱が開けられていて、中のアルミの袋も破られている。タブレットの入った包装シートは、半分以上切り取られていた。それを見て、ルカの顔からさっと血の気がひいた。

「テディ、起きろ……! 起きろよ、起きろって……おまえ、なんで――」

 やめてなかったのか。どうして気づかなかったのかと悔やみながら、ルカはテディを揺り起こした。テディはゆっくりと薄目を開けてルカを見、一瞬ふわりと微笑んだ。

 その表情を見た瞬間、ルカはなにか冷たい棘が刺さったような胸の痛み覚えた。

 何故だかテディの顔がぼやけだす。哀しいのか辛いのか、苦しいのかせつないのか――なにがなんだかわからない、込みあげてくるいろいろな感情のなかにたったひとつ、はっきりと掴みとれるものがあった。やっぱり、テディのことが愛しくてたまらない。傍にいて、護ってやりたい。

「テディ……、おまえがどんな問題を抱えていたとしても、俺はおまえの味方だよ。俺たちはずっと一緒だ、そう誓っただろ? テディ、好きだよ……なにがあっても、俺はおまえのことを愛してる。だから、もっと俺を頼ってくれ……」

 愛の言葉とシンクロするように涙が溢れて止まらない。ルカが独り言のようにそう呟き、俯いていると「……ルカ?」と声がして、ベッドが揺れた。はっとして顔をあげ、涙を拭いながら、起きあがって小首を傾げているテディを見る。

「ああ、俺だよ……ただいまテディ。おまえ……大丈夫か? 気分は悪くないか」

「気分……いいよ……。気持、ぃい……」

 呂律がまわっていない。起こしていなければ、まだ色つきの夢のなかでふわふわと漂っていたのだろう。半分寝惚けたような、とろりとした目つきで自分を見ているその表情に、ルカは再び胸が締めつけられるのを感じた。

 また目を閉じてしまいそうなテディを見て、ルカは気を引き締めるように涙に濡れた後の頬を叩き、その手をぎゅっと握った。

「テディ……夏、楽しみだな。サマースクールがもしいやなら、ずっと俺の家にいたっていいんだ。一緒に過ごそう。約束したよな」

「夏……」

 話しかければ返事はするが目の焦点は合っていないし、やはり明らかに普通の状態ではない。いったい何錠飲んだのか。以前ミルズがしたように、水を飲ませて吐かせたほうがいいのだろうかとルカは迷った。

 しかし、今こうしてまがりなりにも意識があって話をしているのなら、下手なことはしないほうがいいのかもしれない。そうだ、吐かせるまでしなくても薄めればましかもと、ルカはテーブルの上に置いた紙袋を指さした。

「テディ。またお土産を持ってきたよ……キャラメルアップルケーキだ。またイヴリンが焼いてくれたんだよ、一緒に食べてお茶でも飲もう。ビスケットもあるよ、おまえ、好きだろう?」

「……うん……。ルカ、ごめん……」

「なにを謝ってるんだよ、謝ることなんかなにもないよ……! 待ってろ、今階下したでお茶淹れてくるからな。すぐに戻るから、ちゃんと待ってるんだぞ」

 しっかりとテディにそう云い聞かせ、ルカはキャビネットからティーポットを出すと部屋を出た。ばたんと閉ざしたドアに凭れ、ルカは溢れてくる涙を、手の甲でもう一度拭った。





「旨いか?」

「うん……美味しい」

 ケーキを食べ、紅茶を飲んでいるうちにテディは少しずつしゃんとしてきたようだった。まだ少しぼうっとしている様子だが、まともに話はできるようだったのでルカはほっと胸を撫でおろし、キャラメルアップルケーキに齧りついた。

 びっしりと敷き詰められた林檎がこんがりといい色に焼けているその艶やかなケーキは、一口めはほろ苦く、あとから甘酸っぱい林檎の風味とラム酒の香りが口のなかに広がる、少しおとなの味だった。それはまるでイヴリンからのメッセージのように、ルカには思えた。

 一切れを食べ終え、ミントグリーンのマグでダージリンを飲みながら、ルカはほとんど自分と目を合わせようとしないテディの顔を、じっと見つめた。

「なあテディ……、薬は、やっぱりだめだよ。頼むからやめてくれ。なにかあったらって思うと、怖くて堪らないんだ。その……なにか悩みとか、云いにくいこともあるのかもしれないけど、おまえには俺がいることを忘れないでくれ。それとも、俺じゃ頼りにはならないか?」

 テディは両手でマグを包みこむように持ちながら、一瞬目線をあげてルカを見た。

「……別に、悩みなんかないよ。ただ……俺はやっぱり大学とか無理だし、勉強もいやになっただけ。……俺のことなんか気にしないで、ルカはしっかり勉強しなよ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを目指すんだろ? 頑張って……応援してるよ」

「……それは、もう俺と一緒にいられなくていいってことか?」

 責める口調ではなく、穏やかに淡々と、ルカは訊いた。

「……そうなるね」

 相変わらず目を合わすことなく、たった一言テディがそう答えると、ルカは「俺はいやだ」と返した。テディが少し驚いたように、やっと顔をあげる。

「俺はテディと離れるなんて考えたこともない。そんなの絶対にいやだよ。もしもおまえが学校がどうしてもいやだとか無理だって云うんなら、俺もシックスフォームになんか進まないで学校をやめて、テディと一緒に行くよ。いやなのは学校や勉強で、俺のことじゃないよな?」

 呆気にとられたように目を見開いて、テディはゆるゆると首を横に振った。

「……なに……云ってるの……、そんなの、無理に決まってるだろ……。ルカは成績もいいし、」

「成績はおまえも悪くない。授業にちゃんと出ないから落ちてるだけだ」

「自分の行きたいと思う大学があるんだし――」

「俺はおまえと一緒に行けるところに行きたいって云ったぞ」

「ルカが学校をやめるなんてそんなの、家の人が許してくれるはずが――」

「俺は、おまえのためなら家を出るよ。おまえのほうがずっとずっと大事だ」

 事も無げにそう云ったルカにテディは動揺の色を顔に浮かべ、とうとう返す言葉を失った。

 ルカは続けた。

「なあ、いいかげんわかってくれよ……、おまえがいてくれないといやなんだよ。俺はおまえを愛してる。おまえがいない人生なんて、もう考えられないんだ。もしもおまえが俺のことが嫌いになったって云うんなら、そりゃあもうどうしようもないかもしれないけど……そうじゃないなら、俺と離れるなんてことはもう考えないでくれ」

 テディは信じられないといった表情でルカを見つめる。ルカは思いだし笑いでもするように、ふっと微笑んだ。

「本当に、自分でも呆れるくらいおまえが好きなんだよ、テディ。おまえも同じだって、俺は信じてるんだけどな」

 もういくつめの愛の言葉だったろうか――ルカがそう云うと、テディはルカを見つめたまま泣きそうに顔を歪め、なにか云いたげに唇を震わせた。

「……ルカ、俺――」

 縋るような瞳でそう云いかけ、しかしテディは突然はっとしたように口を閉ざし、ルカから目を逸らした。

 がたんと椅子から立ちあがり、背を向けたまま歩きだすのを見てルカは慌てて追いかけ、その手を掴んで止める。

「どこへ行くんだ、今なにか云いかけ――」

「離して、俺、もうルカとは――ジェレミーが! 俺、ジェレミーのこと好きになったんだよ。だから――」

「なんだって?」

「だからもう……ルカとは、一緒にいられない」

 思いもかけない言葉にルカは耳を疑った。――ジェレミーのことを好きになった? だからもう俺とはいられない? テディはそう云ったのか……と頭のなかで反芻する。だがルカは自分がふられたというショックよりも、違和感のほうを強く感じた。その違和感がどこからくるのかまではわからないが、何故かその言葉をそのまま受けとめようという気にならないのだ。

 手首を握っている自分から背けようとしている横顔をじっと見つめ、ふとそのシャツの襟の陰から覗くそれに気がつく。ルカは眉をひそめながらそっと手を伸ばし、頸許のその黒い革紐に指をかけた。

 テディがはっとして振り向き、離れようとしたが、その所為でルカが引っ張り出すことなくその革紐の先についているものがシャツのなかから現れた――誕生日に贈った、自分のイニシャルが刻印されたペンダントトップがきらりと光った。

「……ジェレミーを好きになったなんて、嘘だろ? おまえ、ちゃんと俺のこと好きでいてくれてるじゃないか」

 革紐に付け替えられているのは、細い銀の鎖が切れたかどうかした所為なのだろう。それをわざわざこんなふうに工夫して着け続けてくれているのだから、心変わりなんて嘘だ、とルカは単純明快にそう受けとめた。テディの表情や自分の直感から出していた答えを、このペンダントが裏付けたようなかたちになったのだ。

 ルカは更に自信を持って、テディに云った。

「おまえには俺がいなきゃだめだ。俺は絶対おまえと離れたりしない。離さない」

 それが、とどめの一言になった。

 テディの躰からがくりと力が抜けたのが、握った手首から伝わってきた。自分を映している大きな瞳に、瞬く間に涙が溢れてくる。ルカはそっと肩に手を伸ばして抱き寄せ、手首を離した手で背中を摩ってやった。

「……ルカ……、ルカ……ごめん……! 俺……っ――」

「うん。いいんだ。どんなことがあっても、ふたりでさえいればなんとかなるよ。試験とかもさ、いちおう本番はまだ来年なんだから気楽にやってみて、なるようになれでいいさ」

 テディはルカの胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。とん、とんと子供をあやすように背中を優しく叩きながら、ルカは柔らかな髪を撫で、そこに唇を押しつけた。

 大丈夫、もう大丈夫だ。これでもうなにがあってもふたりの仲が揺らぐことなどない、とルカは――このときは、そう信じていた。

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