Summer Half Term Holidays 「オレンジと檸檬」

 どうも、ルカの様子が変だ。

 イヴリンは午後のお茶のためにレモンドリズルケーキを作りながら、キッチンの窓から見える広い庭を眺めた。

 ルカは芝生の上に足を伸ばして坐りこんでいて、犬たちのためにボールを投げてやっていた。クヴァスという種の白い巻き毛がふわふわと愛らしい犬たちは、何度も何度もルカの投げたボールを我先にと取りに走っては、垂れ耳を靡かせながら戻りまた投げろとねだっていた。ルカはその単純な遊びに付き合いながら、どこかものうげな表情で時折、空を眺めていた。

 また例のルームメイトと喧嘩でもしたのだろうか。混ぜた生地をケーキ型に入れ、とんとんと空気を抜き表面を整えながらイヴリンは、まあ単なるお友達じゃなさそうだったけどね、と口許に笑みを浮かべた。

 ルカを迎えに行ったとき、車のなかから少し話しただけの、あのテディという暗い金髪ダークブロンドの少年を思いだす。おとなしそうで礼儀もきちんとしていたが、ほとんど感情を見せないあのぎごちない表情が、どうにも気に懸かっていた。

 どこかなにかを警戒しているような、おとなの顔色を窺っているようなあの話し方。あれは、あまり幸せな育ち方をしていない子供特有のものだと、イヴリンは思った。



 イヴリンは、それほど裕福ではないごくありふれた家庭に生まれ育った。兄と歳の離れた妹がいて、特に甘やかされた憶えもないが、不自由な思いをした憶えや、自分が不幸だと思ったことはなかった。

 だが学校に通い始めると、生まれ持ったこのオレンジ色の癖毛とそばかすを笑われ、苛められるようになった。にんじんと呼ばれていた頃はまだよかったが、少し学年が進むとその頃に大流行したホラー映画の影響で、チャッキーという渾名をつけられた。

 男の子たちはイヴリンを見かけるたびにチャッキーが来た! とわざとらしく大騒ぎをして逃げ惑い、イヴリンが怒ると殺される! と大袈裟に悲鳴をあげた。男勝りで明るい性格だったイヴリンはすっかり自信を喪失し、許されない場所以外では帽子を決して脱がない、暗くおどおどした少女になった。

 その後、親の仕事の都合で居を移し、それに伴い転校したのが偶々良い結果を生んだ。相変わらず赤毛をからかわれることはあったが、新しくできた友達が心の支えになり、また健全な学生生活を送ることができるようになったのだ。


 その友達が、ちょうどあの少年のようなダークブロンドだった。


 彼女の真っ直ぐな長い髪は、刈入れ時の麦の穂のような色を一部に残し、光を吸いとってでもいるみたいに黒っぽく見えた。生え際や、髪自体の陰になったところは特に陰影が強く、ふたつの色が混ざったように見える――本人はそれを汚らしいと感じていたらしい――ので、本当に綺麗な輝かんばかりの金髪を持った友達の傍に並ぶのが、とても厭だったそうだ。男の子たちにからかわれ、頭から泥水をかけられたこともあると云っていた。

 同じ髪の悩みを持つ年頃の少女たちは自然と意気投合し、常に一緒に過ごすようになった。

 あるとき、レモンの果汁で髪を脱色することができると聞いて、ふたりは早速試してみることにした。小遣いを出しあい、レモンを買えるだけ買ってすべて絞り、果汁を薄めたものを互いの髪にスプレーして陽に晒した。

 イヴリンの赤毛にはほとんど効果はなかったが、彼女のダークブロンドは本当に明るいブロンドに変化した。ただ髪へのダメージも強く、ぎしぎしとした手触りになってしまったので、また同じことをしようとは思わなかった。

 イヴリンは彼女のさらさらと風に揺れる真っ直ぐな髪を、とても美しいと思っていた。そして彼女はイヴリンの濃いオレンジ色の髪を、まるでラナンキュラスやガーベラの花のようで綺麗だと云ってくれた。

 ふたりがそんなふうに互いの髪を褒めあい、いつも仲良く笑いあっているうち――気がつくと、誰もふたりの髪のことを揶揄したりはしないようになっていた。

 もしも彼女と出逢うことなく、転校先でもイヴリンがひとりで下を向いていたならば、また同じことが繰り返されていたかもしれない。卑屈になることなく、顔をあげて笑顔で過ごしていたから、くだらないからかいの対象に選ばれなかったのだと、イヴリンは思った。だからといって、苛められるのはその本人に原因があるからだとは考えないが、常に傍で支えてくれる友人がいることで、よくないものを寄せつけなくなったりすることはあるのだ。



 あの少年には、ルカのようなその年頃特有の屈託のなさとか生意気さとか、そういうものをまったく感じなかった。

 少女のような大きな瞳と整った顔はルカと並んでいるとむしろ幼く見えるのに、表情がなく口調にも抑揚がない所為か、子供らしさのようなものがすっぽりと抜け落ちてしまっているように思えた。かといってませているとかおとなっぽいというわけでもなく、むしろ落ち着きがなく挙動不審気味だった。いちばん初めにルカがルームメイトの話をしてくれたとき、人見知りなのだと聞いてはいたが、実際に会ってみるとそれだけではないような気がした。


 蜂蜜漬けにしたレモンスライスを丁寧に生地の上に並べ、イヴリンはそれをオーブンに入れると温度と時間をセットした。パウンドケーキを焼いているあいだに使ったボウルなどをさっと洗い、レモンを絞って果汁と粉糖を混ぜ合わせたレモンアイシングと、グラニュー糖を使ったシロップを作っておく。作業を続けながらちらりと窓の外を見ると、ルカはごろんと芝生の上に寝そべっていて、犬たちはその傍で同じように巨体を横たわらせていた。


 そういえば、とルカに頼まれてジェルボーを焼いたときのことを思いだす。サマーキャンプから戻ってきたときのルカは、それまで見たことないほどのひどい落ちこみようだった。気分が塞いでいるならパーティをしようという発想の父親や、そんなことより勉強はきちんとしているのという調子の母親ではなく、こういうとき相談役になるのはいつもイヴリンだった。

 ひどいことをしてしまった、もう嫌われてしまったかもしれない、どうしようと嘆くルカの話を聞いているうち、イヴリンはおや、と思った――自己嫌悪と後悔を繰り返し、それでもなんとかならないかと足掻いているその貌が、恋に悩む男のものだったからだ。あらあら、と思いつつ、イヴリンはこっちが気づいていると悟られないように、いろいろアドバイスをした。

 イギリスの寮制学校ボーディングスクールではめずらしくもない話だが、まさか自分の甥っ子が同性愛に悩むとは思ったことがなかった。とはいえ、男子校でのそれは機会的というか、閉鎖的な空間での疑似恋愛体験や通過儀礼的な意味合いのものが多いので、特に気にしたりはせず様子を見ることにした。

 そしてジェルボーは幾何いくばくかの役には立ったのか、その後のルカは帰ってくるたびこっちが恥ずかしくなるほど浮かれていた。

 一度だけ、あのイラク攻撃反対のデモがあったあとの、春のハーフタームのときだけはなにやら少し悩んでいたようだったが、それ以外はまるで薔薇色の青春真っ只中、といった顔をしていた。

 なにか目標でもできたのか、勉強も今まで以上に頑張っているようで、ずいぶん成績が良くなっていると教師から連絡があったとアドリアーナ――ルカの母親がご機嫌だった。うまく仲直りができたのも、ふたりの仲がどうやら進展したらしいのも、単なるルームメイトの話としてしか聞いていなくてもその表情を見れば一目瞭然だった。

 そして、前回のイースター休暇ホリデイ。迎えに行った車のなかで、ルカは今年の夏、サマースクールを終えたあと友達を家に招待したいんだ、と云った。イヴリンは少し驚いたが、まさかいきなり交際宣言やカミングアウトでもないだろうと思い、あら、いいんじゃないと賛成した。

 ルカの父親のクリスティアンは、少し変わり者だが細かいことをとやかく云う人ではないし、むしろ人が家に来るのを喜ぶタイプだ。アドリアーナは典型的な教育ママで、子供たちには年中小言を云ってはいるが、それは母親なら当たり前に持っている愛情を示す方法がそうなっているだけで、息子に友人を紹介されることを喜ばないわけがない。ただし、としてならだが。

 今のところ、いろいろ話を聞いているのが自分だけだからか、ルカが同性のクラスメイトに恋していることには誰も気づいていなかった。まだこのまま知られないほうがいいだろう。近年、いくつかの先進国で同性同士での婚姻を可能とする同性婚法、或いはシビルユニオン法が制定されたことなどが何度かニュースになっていたが、時代も変わったものだと見ていられるのはそれが他人事だと思っているからだ。

 息子が同性の恋人を連れてきたとき、いったいどれだけの母親が顔色を変えずにいらっしゃい、会えて嬉しいわと云えるだろう。まだはっきりとルカが同性愛者だとわかったわけではないうちは、アドリアーナには知られないほうがいい。イヴリンはそのあたりもフォローしなければと、若いふたりを見守るスタンスでいるつもりだった。

 なのに、今回帰ってきたルカはまったくその話もしないし、笑顔も見せない。本当なら夏の招待の件、許してもらえたと伝えたらすごく喜んでいたよ、などと満面の笑みで報告してくるはずなのに。

 やはりなにかあったのだなとイヴリンは、あとでちょっと話をしてみようと決めた。何故か、妙に気に懸かって堪らなかったのだ――ルカではなく、テディというあのダークブロンドの少年が。


 ピーッと音がし、イヴリンはオーブンを開けた。分厚い鍋掴みに手を入れてアルタイト製の型を取りだし、いい色に焼きあがったパウンドケーキを見て満足そうに微笑む。

 レモンシロップをたっぷりと浸みこませたあと、レモンアイシングをたらりとかけて完成だ。よし、と頷くとイヴリンは窓を大きく開けて「ルーカー!」と呼びながら手を振った。



「――そうなの? 観たかったわ、ルカのハムレット……。あの子もなにかの役をやったの?」

 イヴリンがそう聞くと、ルカはレモネードのグラスを傾けていた手をぴた、と止めた。

「あの子……って、テディのことか。いや、あいつはなんにもしてないよ。大道具の仕事や雑用はいくらでもあったのに、全然手伝いにも来なかった」

「あら」

 そのことが原因で喧嘩でもしたのだろうか、とイヴリンは一瞬思ったが、すぐに否定した。その程度のことをここまで引き摺って、こんなに重い表情をする子ではない。ルカは基本的に単純で明るく、楽観的なのだ。

「大勢でわいわいやるのが苦手そうだったものね。夏休みに来てもらうときも、歓迎パーティとか云って騒がないようにクリスに念を押しておいたほうがいいかもよ」

「ああ……いや、もう……来ないかもしれないから」

 そう答えてしゅんと俯いたルカに、イヴリンは苦笑した。まったく素直というかなんというか、気分がそのまんま顔にでるので呆れてしまう。

「来ないって、どうして? 向こうのおうちの方がだめって云ったとか?」

「ううん、そうじゃない。……そうじゃないけど……」

 レモネードを一口飲み、ルカは黙って俯いてしまった。重く溜息をつくルカに、イヴリンはどう言葉をかければいいかと考えた。そして、悩み多き青春時代の自分が、なににいちばん救われたかと思いだす。

「……ルカ。私はいつだってあなたの味方よ……それだけは忘れないで」

 それは昔、どうしてこんな色の髪に生んだのと責めたイヴリンを叱りも宥めもせず、母が云った言葉だった。

 ルカは顔をあげて、今よりもっと子供だった頃の面影を残した表情でイヴリンを見た。イヴリンは黙って微笑み、頷いてみせる。

 レモネードのグラスをじっと見つめ、ルカはおもむろに話し始めた。

「……あいつ……最近変なんだ。朝は起きないし授業はサボるし、そのことを俺が注意しても全然聞かないで……うるさいなんて、あんなこと云う奴じゃなかったのに」

「あの子が?」

 イヴリンもそれは意外な気がした。

「きっとあの不良どもと付き合い始めたせいなんだ。勉強もちっとも進んでないし、成績だってたぶん落ちてるよ。教師ビークどもはみんな俺に訊いてくるんだ……ヴァレンタインはどうした、ヴァレンタインは一緒じゃないのかって。もううんざりだよ。俺だってなんとかしたいと思ってるけど、いったいなにがどうなってテディがあんなになっちまったのか、わからないんだ。一緒に試験を頑張ろうって約束したのに――」

「試験っていうのは今度のGCSE試験のことね。約束っていうのは、なにか目標があってしたことなの?」

「……一緒にシックスフォームに進んで、同じ大学を目指そうって約束したんだ。テディは……親がいないんだ。それで俺、なんだかほっとけなくて、ずっと友達でいようって云ったんだよ。そしたらテディも……ずっと一緒にいてくれって、そう云ってたのに……」

 テーブルに両肘をついて組んだ手に額を預け、ルカは声を震わせ顔を伏せてしまった。

 親がいない。そうだったのかとイヴリンは、あの他人ひとの顔色を窺うような話し方を思いだしていた。

 子供が子供らしくいられるのは、無条件に愛情を注がれ、それを疑うこともなく、親を信じのびのびと育つからだ。程度の差こそあれ、それが欠ければ子供は子供らしさを失っていく――おとなにならざるを得なくなるのである。当たり前の成長とは別に、それを早くに強いられる子供は、やはり幸せではないのだ。

「そうだったの……でも、あの学校に彼を入れた保護者がいるはずよね? それは身内の人じゃないの?」

「じいさんらしいけど、引き取ってすぐにハウスのある学校に入れて、休暇中はホストファミリーに任せっきりにするような奴だよ。学校にテディを連れてきたのも使用人かなんかだったみたいで、テディもほとんど話したことがないって云ってた。……とにかく、兄弟も幼馴染とかもなんにもいなくて、テディは本当に独りだったんだ。だから俺……音楽の趣味が合ったりしてなくても、俺はずっとテディの友達でいようって思ったと思う。それを、テディも喜んでくれてるって信じてたんだ。なのに――」

 どうやらルカが悩んでいるのは、勉強を頑張って大学へ進んでもずっと一緒にいようと誓い、自分はちゃんとそうしているのにテディのほうがもうその約束を忘れたかのように授業をすっぽかし、悪い友達と遊んでいること――らしい。

 なるほど、とイヴリンは思った。うまく恋愛を匂わせずに話しているが、頭のなかで変換してみれば、将来を誓いあった相手がそれを忘れてふたりが一緒にいるための努力を放棄している、ということになる。

 問題は、テディがその悪い友達とやらにでも心変わりしてそうなってしまっているのか、それとも他になにか理由があるのかだが――

「ねえルカ。彼がどうして勉強をしなくなったのかとか、そういうことはちょっと置いておいて……あなたは、愛情を注がれるべき家族に恵まれなかった彼に同情して一緒にいてやるって云ったの? 彼があなたの気持ちに応えようとしなくなったら、もう同情するのもやめるの?」

「そんな……! 同情……って、最初はそうだったかもしれないけど、俺は……俺がそうしたいって思ったから……!」

「そうでしょう? 別に、同情が悪いって云ってるわけじゃないのよ。世の中にはいろいろな事情を抱えてる人がいる。ルームメイトの孤独を見過ごせずに友達になってずっと一緒にいようって手を差し伸べるなんて、誰にでもできることじゃない。立派よルカ、あなたは正しいことをしてる。そんなふうにいつだって自分の傍にいてくれる友人がいると思えることって、なににも代えがたい宝物だもの。きっとルカの知らないところで、それは彼を何度も救っているはずよ。

 だからね、なにがあったかはわからないけれど、今なにかが彼に起きているのが確実なこのときに、あなたはそんなふうに悩んで彼を見放そうとするべきじゃない。黙って様子を見ていれば時間が解決することもある。そうじゃなければ、そのうち誰かに相談したり、助けを求めるかもしれない。でももしも、それもできなくて、本当に彼がなにかに追いつめられているのなら……ルカ、あなたが助けないで、いったい誰がテディを助けるの」

 ルカははっとなにかに気づいたかのように、大きく目を見開いた。

「俺はばかだ……。あいつは、テディは……誰にもなんにも云わないでひとりで泣くような奴なんだ。きっとなにかあって……でも、あいつは絶対にそれを云わない。ひょっとしたら、やっぱり大学へ行くなんて金のかかることはできないって思うようなことを、誰かに云われたのかもしれない。ううん、きっとそうだ……あいつ、最初はシックスフォームにだって進んでいいのかどうかわからないって云ってたんだ。いろいろ悩んでたんだろうに、俺……なんにも気づいてやれないで――」

「家のことやお金のことだとしたら、それは云いづらくて当然よ。あなたは悪くないわ。ルカ、あなたにできるのは、なにがあっても自分が彼の友達だって信じてもらうことよ。それがいちばん、なによりも彼を助けると思うわ」

「うん。……ありがとうイヴリン。イヴリンがいてくれて、話せて本当によかった」

 やっといつものルカらしい笑顔を見て、イヴリンはほっとした。ふたりしてレモネードを飲み干し、浮かべてあった蜂蜜漬けのレモンスライスを指で引き寄せ、齧り取る。

「うん、おいし……。さ、じゃあ忘れないでそのケーキ、母屋に持っていってね。私はここを片付けてから行くから」

「うん。――あ、学校に戻るとき、またケーキかなにか頼んでいいかな」

 ルカにそう云われ、イヴリンは「お安いご用よ。ビスケットもつけちゃう」とおどけたようににっと笑った。

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