Easter Holidays 「No Escape」

「教会の慈善バザーでね。ダニーも一緒に手伝いに行ってるんだ……夕方過ぎには帰るって云ってたかな。それまでお腹がもたないだろうから、あとでどこかに寄ってなにか食べよう。テディはなにが好きだい? このあいだのフィッシュアンドチップスはあんまり食べてなかったね。そうだ、ポーランド料理の店にでも行こうか。ヴロツワフにいたんだろう? ロンドンには結構あるんだよ。ポークのピエロギやビゴスに、プラツキ、グヤーシュ……安くて美味しいからいいよね、ポーランド料理は。うん、そうしよう」

 運転をしながら、デニスは機嫌良く喋り続けていた。助手席に坐ったテディはまったく言葉を発せないまま、フロントガラス越しに見える景色をじっと眺めていた。

 途中、車はいつもクレアが通るチェルシー橋ではなく手前のバタシー橋でテムズ川を渡り、すぐに左へ折れた。テディは怪訝な表情でデニスの横顔を見た――ラングフォード邸のあるセント・ジョンズ・ウッドは、バタシー橋よりも東側のチェルシー橋を渡って、ずっと北に向かっていったところである。左折するのは、どう考えてもおかしい。

「どこへ……向かっているんですか……。家はそっちじゃ……」

 途惑いながらテディがそう訊くと、デニスは楽しげに答えた。

「ドライブだよ。いつもいつも学校とうちとの往復だけじゃつまらないだろう? 早く帰ったってダニーもクレアもいないし、こんなチャンスは滅多にないじゃないか。ちょっと足を伸ばしてヒースロー空港のほうまで行こう」

 ヒースロー空港と聞いても、利用したことのないテディにはそれがここからどのくらいの距離のところにあるのか、見当もつかなかった。しかし、朧気に記憶にある地図では、ヒースローと記されていたのはロンドンの中心地からかなり離れたところだったような気がした。

「……どのくらい……ですか……。俺は――」

 早く家に、と云いかけて、テディは口を噤んだ。

 家に行っても、デニスとふたりきりなのだ。それなら、車で走っているほうがまだいいのではないか。このままただ少しドライブをして、どこかで食事をするのなら。なら――

「うん? ヒースロー空港までかい? そうだなあ、今ここからだと、もうあと三十分くらいかな。でも、そんなに傍までは行かずに途中でぐるっと廻って戻るけどね」

 つまり、一時間ちょっと郊外のほうまでドライブをするということなのだろうか。テディはあまり気は進まなかったが、家でふたりになるよりは余程ましだと思い、それきりもうなにも云わず、外を眺め続けた。

 それからしばらく、車は広い道を真っ直ぐに走り続けていた。が、十五分ほど経ったとき、車は高架橋の下を潜って右折し、細い道へと入っていった。何軒かの商店と、建て売りなのか似たような造りの家が建ち並んだ住宅街をひたすら走り、曲がりくねった道を行くうちにだんだんとこぢんまりとした建物が減り、緑が多くなってゆく。

「テディ、喉が渇かないかい? ちょっとこの辺で休憩しようか」

 既にかなり郊外まできていたようだが、牧歌的というほど素朴でもない、時折なにかの会社か倉庫のようなものが目に入る見通しのいい景色のなかで、デニスがそんなことを云いだした。「俺は別に……」とテディは答えかけたが、デニスはその返事を待っているわけではなさそうだった。

 車はまた道を折れ、ぽつりぽつりと屋根の低い建物が見えるだけの寂れた風景のなかを走り、やがてその一軒を目指して速度を落とした。

 広い駐車場に入っていき、空いたスペースに車を駐める。テディはてっきり、そこがレストランかなにかだと思った。が、ふとその建物の入り口のほうを見やり――その看板の文字に気がつくと、目を瞠った。



 『HEATHROW INN HOTELヒースローイン ホテル

   Bed & Breakfastベッド アンド ブレックファスト / Barバー



 ホテルで休憩、というのがなにを意味するのか、テディの年頃ならもうわからぬ者はない。ヒースローとは名ばかりの、空港からはかなり距離がありそうな寂しい風景のなかに建ったそのホテルからデニスに視線を移し、テディは震える声を絞りだした。

「……ここは――」

「テディ」

 その言葉を遮ってデニスはテディのほうを向き、がしっと掴むように肩に手を置いた。跳びあがらんばかりにびくっと身を縮めるテディに、デニスはにっこりと笑いかけ、こう続けた。

「大丈夫。ここは学校や家から結構離れてるし、僕の知り合いなんかもこの辺りにはまったくいないよ。君さえ大きな声をだしたりひとりで逃げだそうとしたりしなきゃ、なんにも面倒なことにはならない。クレアにもダニーにも、君のにだって、絶対に知られることはないよ」

 テディの顔が凍りつく。デニスはじっとテディを見つめたまま、優しげな笑顔でこう続けた。

「君は頭のいい子だからわかるよね? おかしなことを云ったりやったりして、もしも警察を呼ばれでもしたら、大騒ぎになってしまうんだ。だから、ホテルの部屋に入って、、また車に乗って帰るまで、おとなしくいい子にしていられるよね?」

 勘違いなわけはない。デニスは今から、自分をホテルに連れこんでまた犯そうとしているのだ。しかし自分が叫んだり、誰かに救けを求めたり、逃げだそうとすれば大事おおごとになる――もっともらしく云われた言葉に、テディはまたも混乱してしまった。

 厭だ、逃げたい。でも警察沙汰になってもしデニスが連れていかれたりしたら、ダニエルが自分と同じ、父親のない子になってしまう。騒ぎになれば学校にも連絡されるかもしれない。こんなこと、誰にも知られたくない。特にルカには、絶対に――

 テディの思考がそんなふうに灰色の渦を巻いているうち、過去の記憶、恥辱感、罪悪感、痛みや恐怖といった厭なものが全身を駆け巡り、頭と心をばらばらにした。頭のなかは真っ白い靄がかかったようで、躰は凍りついたように動かず、どうしたらいいのかわからない。拒絶の言葉はみつけられず、抵抗し、逃げだす力など出せるはずもなかった。

 ばんとドアを閉める音がして、助手席側へまわってきたデニスが助手席のドアを開ける。

「大丈夫だよテディ。さあ、行こう……ふたりだけの秘密だ」

 手を差しだされ、テディは感情を失った顔で促されるままに車から降り、エスコートされるようにしてホテルのエントランスまで歩いた。


 ホテルのエントランスだと思ったところはレストラン部分の入り口だった。テーブルがいくつも並んだ店内を格子窓越しに覗きながらその扉をやり過ごし、横手の目立たない入り口から入ると、そこには小さなカウンターがあった。

 デニスがその上にあるベルを鳴らす。少し待つと、レストラン側にいたらしい店員が現れた。デニスは二言ほど話して精算をし、慣れた様子でルームキーを受けとった。

 背中を押されるようにしてカウンターの横を通り過ぎるとき、テディは店員の視線を感じたような気がした。たぶん、自分たちのような二人連れはめずらしくもないのだろう。ひょっとするとデニスは、自分以外にもここに誰かを連れてきたことがあるのかもしれない。

 きっと自分も手合だと思われているのだと、テディは羞恥に背中を丸め俯いた。

 部屋は階段を上がってすぐのところだった。デニスがドアを開け、テディを先に部屋に入れると、背後でかこん、という音がした。施錠の音はあらためてテディにもう逃げられないのだという絶望をつきつけた。

 小さなベッドが二台と、備品が少し置かれたキャビネット以外にはなにもない狭い部屋を見まわし、テディは当惑したように立ち尽くした。

「どうしたんだいテディ? 楽にして、いつものとおり愉しもうじゃないか」

 両肩に手を置かれ、テディはびくっと身を竦ませた。そんなことはお構いなしにデニスはすっと腕を撫でると、そのままブレザーを脱がせにかかる。

「さ、皺になるといけないからね。ハンガーに掛けておいてあげよう」

 上着を一枚脱がされただけで、ずいぶんと無防備になった気がした。テディは壁際にハンガーを掛けているデニスから距離を取ろうと、部屋の奥のほうへじりじりと後退った。振り向いたデニスはすぐにまたテディの傍に寄り、今度はしっかりと肩を抱いてベッドに坐らせようとした。テディは躰を固く強張らせはしたものの、抗うというほどの力も出せずすとんとベッドの端に腰を下ろした。デニスがその隣に坐り、ぴたりと身を寄せてくる。

「さ、ズボンも脱いでしまおうか。皺にならないうちにね……ベルトも窮屈だろう。タイも解いて、シャツも……。全部脱ぐんだよ、テディ。わかってるよね?」

 優しげに、しかし有無を云わさぬ口調でデニスにそう急かされ、テディは俯いたまま震える手でタイを緩めた。そしてシャツのボタンを外そうとして――指先に触れる、細い鎖の感触に手を止めた。

「そうだ、いい子だねテディ。君はほんとに可愛いよ――」

 耳許で囁くデニスのねっとりとした声は、テディのなかでルカの真っ直ぐな愛の言葉にすり替わった。



 『テディ……好きだよ』

 『誓うよ、俺たちはずっと一緒だ。決して離れない』

 『愛してる、テディ……』



 脳裏にルカの顔が浮かぶ。眩しいほどの笑顔と翳りのないブルーヘイゼルの瞳を思い起こすと目頭が熱くなり、優しく触れられて恐怖を乗り越えた夜の記憶を甦らせた。あのとき、その先にあったのは想像したこともない充ち足りた幸福感だった。しかし――

「うん? どうしたんだいテディ。釦、僕が外そうか」

 今、ここにいるのはルカではない。

 シャツ越しに撫で摩る手や、覗きこむようにして近づけられた顔からかかる息。不意にテディは、耐えきれない悍ましさが電流のように皮膚の上を走るのを感じた。

 まとわりついてくる手を振りきり、立ちあがる。

「や……やめてください……! やっぱりいやだ――こんなことはもう、いやです……、ゆるして――」

「テディ……、どうしたんだい突然――」

「おねがいです……誰にも云いませんから。もうこんなことは……ほんとにもう、いやなんだ。やめて、触らないで……!」

 目に涙をいっぱい溜めてゆるゆると首を横に振りながら、テディは抑えつけていたものが噴きだすようにそう訴え続けた。

 狭い部屋のなかには逃げ場もなく、壁に張りつくように立ってデニスを見る。その表情からはさっきまで浮かべていた笑みが消え、代わりに苛ついたような険しい視線が自分に向けられていた。それに気がつき、テディはびくっと竦みあがった。

「今更なんだ……僕を困らせるんじゃないよテディ。早くこっちへ――」と乱暴に腕を引かれ、テディは咄嗟に後ろ手に触れたものを掴んでデニスに向かって投げつけた。それが見事にデニスの顔に命中する瞬間、テディは自分が投げたものが聖書だったと気づいた。

 臙脂色の表紙のそれはばさりと広がって床に落ち、同時にデニスの優しい家庭人の仮面も完全に剥がれ落ちた――醜い欲望と怒りを露わにした怖ろしい形相で、デニスはテディを睨みつけた。

 襟元を掴まれ、歯を食いしばる間もなくぱん! と左頬を平手でたれる。ぐらりと蹌踉めいたところをぐいと腕を鷲掴みにして引き寄せられ、テディは物凄い力で投げるようにベッドの上に倒された。

「なにがいやなんだ、こんなにいろいろしてやって、優しく云ってやってるのに……! おとなしくしないか、この――」

「いや、いやだ……やめて、離して……!! いやぁっ――」

 テディの躰を跨いで伸し掛かり、デニスは解いたタイで両手を縛ろうとした。シャツを引きちぎるようにはだけられたとき、微かにしゃらん、という音が聞こえた。涙に濡れた目を大きく見開いて、テディは自由を奪われた手の指を伸ばし、そっと自分の頸に触れた――あるはずの細い鎖がなくなっていた。ルカと揃いの、ルカのイニシャルと十字架クロスのペンダント――

 誰もたすけてなどくれない。ルカも、母も、そして神さえも――。

 縛られた手を頭の上で押さえられ、もう一方の手が、そして舌が肌を滑り這いまわる。テディは為す術もなく目を閉じた。

 眦から、涙が一粒零れ落ちた。

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