第57話

 権田は朝刊の経済新聞をソファの上に放り出しながら、ぼんやりと窓から見える元町の風景を見ていた。

 京都で近松達と別れて数日が過ぎていた。

 しかしその後の数日、権田はLEONのソファの上で過去の時間に居たと言っていい。

 瞼を閉じれば忘れていたセピア色の思い出が色鮮やかに思い出されてくる。今も西宮で護の死に立ち会えなかったことを思い出していた。

 思い出される自分の古い記憶はまるで《芦屋の向日葵》が再び彩らせているのかもしれない。そう思いたくなるほど色鮮やかに昔の事を思い出した。

 権田は窓ガラスの向こうに元町の通りを歩く人々の姿を見た。夏の日差しを避けようとする色とりどりの日傘が眩しく見える。

 思えば戦後、時代は目まぐるしくかわった。

 日本全土は内閣の列島改造により整備され、新幹線が日本東西を走り、人の往来を便利にさせた。、それだけでなく万博やオリンピックが行われ、まさに日本は高度経済成長の時代だった。

 一方で人々の心はいつごろか金銭や物の取集に移り、美術品と言った芸術そのものには意識が低くなった。

 神戸に開いたギャラリーLEONはそうした人たちの芸術への関心を少しでも取り戻そうと色んな作品を飾ってはいるが、人々は見向きをすることなく、足早に人々は百貨店等の商業施設に消えてゆく。


 ――もし、この時代にあの《芦屋の向日葵》があったら。

 

 権田はいつも、そう思う。 

 いや、現にそれはあるのだ。ひっそりと乾財閥の奥まった屋敷に中に。

 だが今は洋一郎の意思によって隠されている。

 洋一郎は言った。

「清君、いつか時が来たら私はこの絵を公にするつもりだ」

 洋一郎は自分にそう言った。

「もしその時が来たら君に僕の思い描く美術館の館長をしてほしい。清君、いや権田さん、これこそ亡くなった護さんとの約束を果たすことになるのだから」

 洋一郎が海外へ出張する際、多くの絵画品を買い求めていたのは実は二人の中でこうした秘密裏の美術館の構想があったからだ。

 しかしその大事な核となるコンセプトに権田は関与しない。あくまで洋一郎主導による美術館なのだ。

 それがどのような姿になり、どのよう美術品が収まるかは分からない。

 しかしはっきりと分かっていることは、その美術館の中心にはきっとあの《芦屋の向日葵》が飾られ、多くの人々の目の前で輝いている筈だ。


 ――あの《イレーヌ嬢》もそこにあってもいいぐらいの出来栄えだった。

 権田は目を細める。

 護の死を知った西宮のアパートで見た遺作とも言っていいルノワールの模写。

(あの作品も本物と変わらぬほどの輝きを持っていた。いや…自分としてはルノワールには悪いが自分にとっての《イレーヌ嬢》はあの作品でしかない)

 そこで不意に権田は何かを思い出したかのようにギャラリーの奥へと向かった。

(確か…、あの方とは暫く手紙のやり取りをしていた筈だ)

 権田は奥の書庫に入ると棚に並ばれた画集を指で追うように探して始めた。

(確かルノワールの画集に挟んでいたと思おうが…)

 指が動きながら目当ての画集を探してゆく。

 その指が止まった。

(あった。これだ)

 権田は一冊の画集を開いた。それを数ページ捲る。するとルノワールの《イレーヌ嬢》の絵の所に角が茶色に変色した一通の葉書が差し込んであった。

 それをゆっくりと丁寧に取る。

 権田ははがきに目を通した。

 

“差出人 田川康夫”

 葉書を裏返す。

 そこに差し出し先が書かれていた。

 それを口に出す。

「滋賀…、場所はN…」

 それから地図を手元に引き寄せるとその住所を指で追う。

 指は琵琶湖沿いの比叡山を北に進み、やがて止まった。

「ここか…Nというのは」

 権田の指が止まった場所は滋賀の朽木の近くだった。

 そこでおや?と思った。思うと元の部屋に歩き出し、放りっぱなしになった経済新聞を見た。

(待てよ…)

 権田は目を動かす。

(確か…、今朝の新聞にあったな…乾建設の記事が…それを先程何気に読んだところだった…)

 動く目が止まった。

「あった」

 思わず声に出す。声に出すと記事を注意深く読み直す。

 読み終えると権田は思わず腕を組んだ。

(同じ人物なのだろうか…)

 新聞には乾建設が滋賀県の朽木付近のN奥にダムを建設することが書かれていた。

 しかし権田が思わず腕を組んだのはそのダム建設は地元の反対者が居ると書かれてあり、その代表が田川康夫と書かれていたからだった。


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