第56話
「浦部…」
遠くから自分を呼ぶ声に瞼を開けた。眩しい光が睫毛に反射する。
(誰や…俺を呼ぶ奴は)
眼を動かす。
見渡せば計器の群れ。それに何かに反応して音を出す無機質なデジタル音。浦部はやや顎を突き出して、息を吐いた。
(せやった、俺は病院に入院してたんやったな)
それから腕を軽く動かす。
(原因は分からんが、頭がズキズキする)
「おい、浦部」
今度ははっきりと聞こえた。太い男の声、それも年老いた男の声だ。
声の方を向く。
「気が付いたか…?」
浦部は吐いた息に感情をぶつけるように言う。
「何や、おっさんやないか…」
「おっさんで悪かったな、浦部」
言うと男が椅子に腰かけるのが分かった。それから白い帽子の下で光る金縁のサングラスを取った。
「俺に事は覚えてるな?曽根崎でお前が駆け込んで被害届を出した時の刑事の俺のこと、いや…思えの事やからひょっとしたら昔の事も知ってて知らんぷりかもな」
「何の事か」
言ってから浦部が黙る。
「お前は曽根崎で俺にゴッホの向日葵の事を言ったよな。それを警察に探してほしいなんて今思えば盗んだ盗人猛々しい」
「何の事かしらんな、あいにくやけど」
「そうか、そんならまぁええ。だがな、こちらもあの時と違ってお前をどうやら別の件でしょっ引かなあかんようや」
(別の件だと…?)
浦部は瞼を閉じようとした。
(どうでもええおっさんの話や)
浦部は大きく息を吐いた。
(俺はこのように誰かに何かされて大怪我してるんや…暫くは病院で養生させてもらう)
そう思って自嘲するような含み笑いを浮かべようとした。
「浦部、死んだで。田川洋子は」
男の鋭い声が浦部を襲う。
思いもよらぬ突然の言葉に浦部は目を大きく見開いた。
思わず心の反動が声に出る。
「何やとっ!!」
そのまま眼を近松に向ける。見れば近松の切れ長の目がしなやなか猫科の動物のように自分を見ている。
(嫌な目だ。俺の知っている刑事の眼。犯罪者を探るような眼だ)
若い頃、嫌というほどこうした目にさらされて生きて来た。猜疑心を探そうとする獲物たちの眼。
しかし、今の俺は違う。
俺はあの向日葵で蘇ったんだ。そしてそれを本来持つべきである正しい継承者に返しただけだ。
それもあのルノワールの名画と交換と言う条件で。
だが刑事は言ったではないか。
俺が渡したあの《芦屋の向日葵》の正当な継承者は死んだと。
「浦部、驚いたようだな」
近松の声に僅かに反応する。
「お前、何故。警察に来た?お前が自分で盗んだということをわざわざ証明するために来る馬鹿は居ない。何がお前をそこまでさせたんだ?」
被っていた白い帽子を取ると近松はサングラスを掛けなおす。それから取った帽子を、ぽいと浦部が寝ているベッド上に放り投げた。
「それが良くわからん」
言って息を吐く。
「俺は過去の或る事件、まぁええ、今はお前しかおらんから言うが…昔お前が忍び込んだ土岐護っちゅう漁師のところから盗んだ絵の事件を調べなおした。そこでアパートを出て行くお前の姿を見た少女の発言は結局裁判ではとりあげられんかったが…、向日葵だったと言ったんだ…俺にな」
それから一枚の写真をポケットから取り出す。それをひらりと帽子と同じように投げ出す。浦部はそれを手に取った。見ればそれは自分が良く見知っている絵だった。
「当然わかるやろうな、自分が盗んだ絵の事やから。それは《芦屋の向日葵》、そうあ1945年8月の空襲で焼失された名画や…」
そこまで言って近松が息を吐いた。
「…の筈やった…」
近松の言葉の中に何かを感じ取った浦部がまじまじと老刑事の顔を見る。その表情には照らし出されない何かが浮かんでいた。
それは何か大事な事のように思えた。自分に取って。すごくとても大事な。
「浦部。お前は今田川洋子殺害の重要参考人や。お前が洋子と懇ろだったのはこちらで調べがついている」
浦部は黙って聞いている
「取引や、浦部」
(何…?取引?)
以外な相手の申し出に浦部は驚いた。
(こいつ何を言ってやがるんだ?)
思わず嬲るような気分になった。
「阿保かおっさん。何が取引や。取引ゆうたら互いにそれぞれ同格のものを持たなあかん。あんたにそれがあるっちゅうんかい?」
「あの向日葵が誰かの描いた偽物だとしたら?」
「何っ!?」
浦部は思わず身を乗り出した。それから怒りを混じらせて言う。
「何言うてるんや!!あの向日葵は本物や。この世に一枚しかない、本物なんや。あれはなぁ、あの土岐っちゅう男が戦後もずっと隠して持ってたんや。誰にも分からぬように!!」
言い終わらぬうちに浦部はしまったという顔をした。まんまと簡単な刑事のリーディングに引っかかった。見ればにんまりと近松が笑いながら自分を見ている。
(しまった!!誘導にひっかかった)
しかし言ったものはしょうがない。浦部はむっつりとして黙った。乾いた近松の笑い声が自分の耳奥に響く。
(うっさい笑い声や!!)
ますます浦部は黙り込む。その様子を見て近松は笑うのをやめるとやがて穏やかに言った。
「浦部。もうな、俺は刑事ちゃうねん」
ピクリと浦部が耳を動かす。
「今はさるお嬢ちゃんの私立探偵や」
(さるお嬢さんだと…?)
顔を上げる。
「それがどうした。それで俺の容疑が晴れるんか?洋子殺しの犯人っちゅう容疑が?」
「それはお前次第や。だからこその取引や」
「何?」
浦部がサングラス越しに自分を見つめる近松の眼を見た。その眼からはどこか穏やかで冷静な感情に揺られていない目が見つめている。
(近松のおっさん、どうやら俺を犯人やと思ってないな。これはさっきのような刑事独特の猜疑心の塊の眼じゃない…)
浦部は暫く近松を向き合った。それは近松の本意を探りたいという気持ちからだった。
本意はどこにあるのか?
浦部は聞きたくなった。
「何を知りたいんだ?」
「真実さ?」
「真実やと?」
「ああ」
矢継ぎ早に言葉を繰り出して近松が言った。
「俺は刑事であろうが、それでなかろうが今はなんかよう分からん。しかしなぁ…なんか知りたくなったんや。この向日葵の真実を。だから俺はお前と取引するんや。お前を洋子殺しの容疑者じゃないと言う証を俺は立てる。だからその代わり…」
「その代わり何や?」
一泊の間を置いて近松が言った。
「お前が知っていることを全て洗いざらい話すんだ。それが俺とお前の取引だ」
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