第55話

 浦部という男は奇妙だ。

 人ならばそれは物を持ち、それを奪えば金になると信じていた。

 天井の染みは自分の貧しさに足して滴り落ちて来る油にしか見えなかった。

 だから何かが起きれば心の中で発火してそれが簡単に炎になって燃え上がる。燃え上がればその炎は拳となり相手を傷つけ、また妬みに着火すれば盗みになった。

 世界は元々色彩など持たないものだと信じていた。


 ――そう、

 あの時までは


 休日の皆が微睡(まどろ)む日曜の早朝。

 誰もいない静寂の時間。

 鳥のさえずる声はどこにも聞こえない。

 俺はアパートの階段を上っていた。誰にも気が付かれないように音も立てず。

 或る部屋の前に来ると以前作っておいた合鍵を静かに差し込む。

 この合鍵は尼崎すんでいる俺の母親の家裏に住んでいるどこか顔色が悪い漁師の引っ越しを、わざわざ俺が手伝ってやった時に作ったものだ。

 勿論、それは後日この部屋に俺が盗みに入る為に…

 そしてその後日こそがこの時間だ。

 俺は静かに音も立てぬように細心の注意を払いドアのノブを回す。

 音は響かない。

 しかし俺は中に人が居ようが今日は気にはしない。

 居ればこの拳で殴り、悶絶でもしたところで例のものを盗めばいいと腹を決めていた。

 いつもの盗み仲間なんか呼びやしない。

 なんせ今から盗むものは一級品なんだ。

 仲間なんかに渡せない。

 そうさ、こいつは学校何てまともに出ていない俺でも知っている一級品、それも幻のだ。

 俺は後ろ手に静かにドアを閉めた。

 小さな玄関に置かれた靴はきちんと整理されている。

 中を確認するように首を伸ばす。

 台所に僅かばかりの煙草の吸殻がきちんと捨てられていた。誰かが談笑に来てここに捨てたのかもしれない。

 耳をすます。

 音はしない。

 誰もいないということだ。

 それを確認すると忍び歩く。

 部屋の間取りは既に引っ越しの時に頭に叩き込んでいる。

 そうさ…

 あの絵の置かれている場所すらも。

 俺は足音を立てぬように足を忍ばせる。

 あの絵はあそこにある。

 そう、畳八畳ほどの陽が煌めくほど差し込むあの部屋。

「浦部君、すまないがそいつはここに置いてくれないか。この部屋に飾るんだよ」

 引っ越しをした時の日に焼けた肌の下で笑う白い歯が浮かぶ。

(ありがとよ、おっさん。俺が後で忍んで手に入れる場所まで丁寧に教えてくれて)

 ほくそ笑む俺の頬が手にかけた襖に手を通じて緩みそうになった。

 いけねぇ

 俺は慎重に襖を開ける。

 開けるとまずは煌めくばかりに朝陽がかがやくのが見えた。

 窓は大きく、そこにはカーテンが無い。だからめい一杯の明かりが差し込んでいるんだ。

(お…)

 俺は視線を向けた。陽が差し込む壁に俺が探しているものがあった。それは静かに何も言わず陽を受けている。

(あったぞ…、あれだ…ゴッホが描いた《芦屋の向日葵》…)

 太陽の陽を受け、それが色の濃淡をより深くさせ、深沈とした背景の青が濃く映える。

(まさしく…ゴッホだ。ゴッホの向日葵…)

 俺は震えながら部屋に入った。

 その時、俺の足指先に何かが当たった。

 それは布団だった。

 俺は緊張した。

 あまりにもゴッホの向日葵に目を奪われて、最新の注意を怠った。

 視線を向けると布団に横たわる奴がこちらを見ている。

(しまった!!) 

 俺は反射的に身を仰け反らせた。

(バレた!!)

 しかし、そう思った俺が後することはシンプルだ。

 相手を殴り、悶絶させる。

 だから俺は相手に襲い掛かろうと手を振り上げた。

(悪いな!!あんた!!いや、土岐さんよ!!)

 俺は一気に手を振り下ろす。


 …筈だった。


 まるで背景がゆっくりとスローモーションのように流れてゆく。

(こ、こいつは…)

 俺はそこに横たわる人物の顔を見て、驚愕したんだ。

 そう、この布団に横たわる男は既に死んでいたのだ。

 俺はあまりに大きな衝撃を受けて振り上げた手の行き場所を失うように大きくよろめいた。

 よろめいて不覚にも壁にぶつかった。

 その振動の大きさは俺が受けた衝撃に比例するように壁に伝わり、壁に掛けられた向日葵の絵が壁から床に落ちて激しく音を立てた。

 俺は動揺して慌ててその向日葵の絵を抱えると、部屋を出ようとした。

 出ようとして、俺は振り返ったんだ。

 言葉無き死人の男を。

 

 それはとても穏やかな人生に満足した死に顔だった。


 俺はその時初めて、自分の世界に色彩が彩るのを感じた。

 無我夢中でアパートの階段を下りてゆく。途中、女の子供とすれ違った。顔を見られたかなんてどうでもよかった。

 俺は色づくこの世界で初めて逃げた。今までの色彩の失せた世界から逃げていた俺は初めてこの世界に色彩を得て、止めていたセダンに乗り込んで逃走した。

 亡くなったあの男の穏やかなあの満足した微笑を浮かべたような死に顔。俺は逃げながらハンドルを握りながら、何故か泣き出したくなった。

 いや、泣いていたんだ。

 何故、あれほどの満足した死に顔ができるのだろう。

 俺は出来るのか?

 喧嘩や盗みばかりしてきたこの俺に。

 母親を泣かすしか能がない自分。

 あの男の死に顔はそんな自分をまるで突き放す様で、でもどこか優しく語りかける。

(あっ!!)

 俺は思わず急ブレーキを踏んだ。

 信号が赤だった。

 俺は呆然と何だが流れるままに信号機を見ている。

 俺は色彩を得た、

 あの土岐という男の死に顔に触れて、


 俺は…


 俺は…、


「赤」で止ったんだ。

 

 それからハンドルに額を寄せて突っ伏す様に俺は声もなく泣き出した。

 嗚咽を漏らしながら、俺は何度も何度も泣いたんだ。

 悔しくて、悔しくて。


(真面目になるんだ)

 俺は泣きながら決めた。

 この向日葵はその日が来るまで俺が持っている。

 盗人猛々しいと誰もが思うかもしれないが、俺にはこいつが必要なんだ。

 これを持つことで俺はあの男、いや土岐護という男の死に顔を忘れないだろう。

 この色彩を得た新しい世界に俺が生きてゆくために。

 俺にはこの《芦屋の向日葵》が必要なんだ。

 畜生!!

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