第58話
時雨のような細い雨音。
それはきっと東京へ向かった頼子にいつも降り続けていた雨だろう。穏やかな春の陽日でも、それは頬を軽く濡らすものだったかもしれないが、長い年月降り続けていたに違いない。それが今も降り続けている。
そう頼子というこの老婦人の心の中を。
――誰が老婦人の人生を責めることができようか。
綾子は老婦人が泣き止むのを待った。
綾子は未だ見たことが無い面影の人を思った。
それは彼女、
そう…
――田川洋子
彼女はどのような人物だったのだろう。綾子は夜の庭に降る注ぐ雨音に心を寄せながら、思いを巡らせた。
(幼い時に実母と離れ離れになり、それから田川夫妻に引き取られ滋賀へと行く…)
綾子はカップを手に取った。老婦人の心に降る雨音の邪魔をしないように。
(そこで彼女は小さな幸せを掴みながら生き…、やがて本当の父の事を知る。しかし、実父である土岐護は既に末期の癌で余命もあまりない人生。でも…その最後のひと時を養父母の優しさで過ごすことができた…)
唇に紅茶の温かさが伝わる。
それは誰の温かさだろうか。
ふと、そんなことを思わないではいられなかった。
(彼女は幸せだったのではないだろうか…)
「綾子さん」
哉の声がした。
顔を上げ、男を見た。
「護の葬儀は、こちらでしたんです」
「こちら?」
「そうです。新島の計らいで…近くの成願寺という寺で…遺骨も私達兄妹でちゃんと拾うことができ…それから当時の私たちの住まいがあった東京へ遺骨を持ち返ったのです」
綾子は小さく頷いた。
「その後、東京での生活は何も変わることなく、洋子も私達も何事の変化なく過ごしていたのです。しかし…」
「しかし…?」
哉は眉間に深い皺を寄せて、妹の肩に手を掛けた。それに妹の老婦人の手が重なる。老婦人は泣いては居なかった。そこには暗雲とした表情が浮かび、強く何か意思を秘めた表情が浮かんでいた。
哉が綾子を見た。
「私達兄妹は護の死後の静かな時間の経過が護との間にできた溝を静かに埋め…時間の経過と共に癒されることを望んだのです。ですが、そうはいかなくなったのです…」
綾子は黙って哉の話を聞いている。
「それが結局のところ綾子さん、あなたの誘拐に繋がり、今あなたがここにいることになっている」
「…なっている…?」
「ええ」
「それは…?」
哉は何かを振り返った。綾子もその視線を追う。哉の視線は壁に立て置かれた三枚の絵に向かっていた。
そこには
《芦屋の向日葵》、《イレーヌ嬢》、《陽光の中の裸婦》が並んでいる。その絵を見つめる哉心の内に熱が籠ったのか、胸を押さえながら言った。
「そう、全ては新島がダム建設を口実に全てを闇に葬ろうとしたのが全てなんです。この建物にあるこの三作の作品含めすべては護の作品。ここは私が…いや私達全員…そう頼子、田川君夫妻…そして洋子で造った護の美術館なんです」
(頼子、田川君夫妻…そして洋子…)
綾子は哉が呻くように言った人々の名前を心の中で反芻する。
(そして土岐護の美術館)
「兄さん…」
老婦人が哉を心配そうに見つめる。気持ちの高ぶりを抑えきれなくなっている兄を心配そうに見つめている。それに応えるように、胸を押さえながら首を縦に振った。
大丈夫だと、心の中で呟いたように綾子には見えた。
「そう…、我々はダム建設に対して反対する同志。新島をこのまま何事もなく、唯死なせてはいかない」
少しだけ雨音が強くなった。まるで哉の心の内を震わす何かに共鳴しているかのように。
「この建物こそ、彼の人生において全てを償わせなければならないという我々の意思の存在。ダム建設でこの建物を水没させては絶対にいけない。この建物は新島が残りの人生をかけて社会へ贖罪させ続けるためのモニュメントとして、そして名もなく散った…土岐護という天才画家の美術館として未来へ残さなければならないのです」
「それはどういうことなんです」
綾子は言った。
「それはこの場所こそ…この場所こそ…新島にとって唯一誰にも知られたくない秘密の場所なのだからです」
(秘密の場所…)
綾子は疑問を口する。
「それは?」
哉はそこで大きく息を吸った。まるでこれから全てを吐き出さねばならないことをためらっていた大きなものを吐き出す為に。
「ここは731部隊の秘密の国内研究所だったのです」
「731部隊…?」
「そうです。正式には関東軍貿易給水部。戦時中にあった謎の部隊。新島も私もそこにいたんです」
綾子には全く分からない名前だった。しかし、それが
「ここが私達の人生に全て関わっているのです。ここで秘密裏に研究されたいたある細菌とそれに対する対抗試薬…、それこそが多くの人々を戦後不幸に陥れた…」
「ある試薬?」
「そうです。それは実はある病気の進行抑制に効くと言うことでアメリカの臨床実験を経て日本へ導入された。しかし、それは不完全だったのです。欧州人には効果が認められたが…我々アジア人にとっては遺伝子のレベルで不適合になる確率が高い薬だった。それを新島が知っていながら許可を出して、医療機関で使えるようにした」
「一体、何の病気の進行を抑制する効果があると?」
「肝臓癌です」
「癌…?」
「そうです」
そこで綾子ははっとした。
そう確か老婦人は言わなかっただろうか?過去の時間で何かに苦しみ、やがて新島と結婚することになったと…
「そう…つまりその試薬の日本人一号は私だったのです。しかしながら私には適合し、今このように生きている。だが…」
「だが?」
「田川君の奥様、そして洋子にはむしろ不適合だった」
「えっ!」
綾子は思いがけないことに思わず声を張り上げた。
「二人には癌が他の部位に転移してしまった。癌の多発を生んでしまったのです」
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