第45話
道が伸びている。
直線ではない、それはゆっくりと曲がっている。
道はコンクリート舗装ではなかった。道は途中で折れ曲がり、窪んだりしている。それはまるで農道のような荒れ道だった。
荒れ道の土は少し湿りを持っているのか、土独特の際立つような香りを放ち、その香りに交わるような馬車の跡が轍のように伸びている。
私は静寂の中に居た。
何も聞こえない。
自分の心臓の波打つ鼓動だけが自分という存在が生きているのだと認識させてくれる。
視界が開けない。私の焦燥が心に言葉を繋げる。
(ここはどこだろう?)
そう思った時、突然、私の背後で鳥が鳴いた。
耳を覆わんばかりの喧騒のような鳴き声。
(これは)
余りの高い鳴き声に思わず耳を覆う。
(烏・・?)
そうだ、この鳴き声は烏。
意識がそう認識した時、再び烏が一斉に鳴き始めた。
私の鼓膜の奥で叫ぶように響く烏の鳴き声。
その烏の鳴き声が空に震える。
それで空を覆うような無数の烏の群れが頭上を越えて私を追い越してゆく。
振り返る間もなかった。
(何という数なんだろう)
私は烏を追いながら、空を見上げた。
空は低く、まるで今にも雨でも降りそうだった。
烏の群れを追うように私の意識が自分のいる世界を認識しようと感覚の手を広げて行く。
広がり行く意識に引きずられて視界が世界の形を探ってゆく。
パノラマのようにゆっくりと左右に広がってゆくこの世界を追う私の意識。追いかける私の意識が風に靡いて揺れ動く何かに触れた。
(これは何?)
手を伸ばしてその何かに触れる。それは軽く、それでいて種子のような感覚・・。
(あぁ・・これは)
私ははっきりとそれを認識した。
(小麦の穂・・では?)
その瞬間、一斉に世界が輝いた。
荒れた農道から突如左右に強い風が吹いて、黄金色に輝く稲穂が風に靡いて波打つように波紋上に広がった。
その風は私の意識が起こしたものかもしれない。そう思いたくなるほど、その風が世界の果てまで形を探るように稲穂を撫でていく。
自分が立っている場所。
それは黄金色に輝く小麦畑の入り口なのだ。
その黄金色の穂の先を追い越していった烏の群れが低く飛んでいる。
しかし空は低く、黒い。なんという激しい色彩のコントラスの世界なのだろう。この世界の二分するかのように地平線を挟んで黒く青い空、人生の豊穣の時を映し出すかのような小麦の黄色。
しかし、
――荒涼とした世界が何という美しさなのだろう。
私は黒髪を風に吹かれるままにしていた。
私はいつかこの世界に生きてみたい。
私の命の炎が消え去った時、このような美しい世界で私は再び生を受けたい。それはおそらくそう遠くないだろう。
喀血する度、胸を焦がすような苦しみが自分を襲う。
だからこそそう思うのだ。
誰でも自らの死は生の果てにある。その死を引き寄せるのは自分である。
私は病魔に侵されている。医師は嘘を言わないが、限りない真実をぼかして伝えている。
私は分かっている。
死が迫っていることを。
その先にもし何かがあってほしいと願うのなら、それはこのような美しい世界であってほしい。
激しい色彩のコントラストに彩られた色彩の世界。そうまるで死と生という対極がいつまでも果てしなく広がっているようなこの世界に再び生きたい。
私は死を願っている?
生ではなく、死を願っている?
私は誰?
私は誰でもない。
そう私は乾・・乾玲子。
まだ生きなければならない。
妹の為に。
そう思った時、自分の身体を誰かがすり抜けた。
玲子は驚いた。
まさか自分をすりぬけてゆく者がこの世界に居ようとは。ここは私だけの夢の世界、希望の世界では?
(あなたは誰?)
荒れ道を行く人影が振り返らず止った。彼は破れた麦藁の帽子を被り、くたびれた洋服の上下を着て、背にイーゼルを背負っている。一目でその人影が画家だと分かった。
僅かに顔が振り返る。
玲子は眼差しを注意深く向けて帽子の下にある画家の顔を見ようとした。
口元に加えている煙草が見えた。しかし彼が吐く煙草の煙が玲子の視界を遮る。
「あなたは、誰ですか・・・?」
玲子の問いかけに彼は何言わない。玲子は再び彼の顔を見ようと視線を細める。しかし彼の顔は何故か淀んでいてはっきりと見えなかった。
(この人物は一体・・誰?)
その思った時、煙草の煙の向うで声がした。
――あなたは私の絵に『興味』があるようですね?
玲子はその声を聞いて驚いた。それは良く知っている人物の声だったからだった。
彼は続けて言う。
――いや、違うな。あなたは私の描いた絵に『興味』があるのではなく、絵の『秘密』に興味があるのではないですか?
だからあなたは私の描く世界に舞い込んで、いまそこに居るのです。
風が強く吹く。
――あなたは知りたいのです。本当の事を。違いますか?
そう言うと彼は煙草を口から離すと、玲子に背を向けた。
その僅かな瞬間、彼が口元に微笑を浮かべたのが玲子には分かった。
彼はそう言い残すと小麦畑の中に歩みを進め、やがて振り返ることなく音もなく消えて行った。
玲子は風に吹かれている。いや、吹かれるままにしていた。
彼の声音、それはまさに自分の知っている人物だった。
それは水野の声だった。
彼は言った。
――あなたは知りたいのです。本当の事を。違いますか?
彼の問いかけが玲子を風の中で吹かせるままにさせている。
(私は・・知りたいのかもしれない。あの向日葵の秘密を・・)
自問する自分の心に突然、何かを貫くような激しい音が聞こえた。
(これは・・)
それは高い音だった。音は一瞬だけ小麦畑の中に響くと、あとは何もなかったかのようにゆっくりと静寂が小麦畑に広がってゆく。
空を飛ぶ烏の群れがざわつく。
(これは・・)
玲子はただ茫然としている。
(もしやピストルの音では??)
玲子は急いで小麦畑の中に足を踏み入れた。
(いけない・・!!)
足を踏み入れながら思った。きっと彼はこの麦畑の中でピストル自殺をしたのだ。
(死んではいけない・・水野さん)
玲子は彼を探そうと小麦の穂を懸命に掻き分けながら進んで行く。
(死んではいけない・・)
玲子はもがくように歩く。
玲子の掌が小麦の穂で切れた。玲子は構わず進んで行く。
水野を探しながら玲子は頬から涙が流れるのを抑えることができなかった。懸命に水野を探す玲子の瞳は涙で濡れていた。
(死んではいけない)
玲子は嗚咽を抑えるようにひとり泣きだした。
(水野さん・・・、あなたは私と共に生きて、あの向日葵の秘密を探すのです)
――だから、
顔を上げる。
(生きていて・・)
玲子は麦畑を掻き分けながら彼を懸命に探し続けた。
それはまるで死を振り払い、自らが生にしがみつこうとする希望を見つけたかのような力強さだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます