第46話
――田川洋子はその幸雄の腹違いの腹違いの姉なのです。
老婦人の言葉が湿りを帯びる。
綾子は思った。
それは決して真夜中に降る蝉時雨のような雨が濡らしたのではない。老婦人の心が湿らせたのだ。
伏せた老婦人の瞼が小さく震えている。
綾子は老婦人の誰にも言えず耐えてきた思いを震える瞼の内に感じた気がした。
横に立つ男がその老婦人の背に手を置いた。それは老婦人に去来する思いを乱さぬように静かに優しかった。
老婦人の瞼から一筋の涙が落ちた。それはまるで月の表面を流れる雫のように頬を伝い落ちてゆく。
綾子はその雫がいつから老婦人の頬を流れていたのかを心の内で思った。
それは今だろうか、それともそれはもっと遥か、そう、あの土岐護氏と別れた時からこの老婦人の心には流れ続けていたのではないのだろうか?
叶うことのできなかった真実の愛。それに対する後悔の涙。
それが今思いの責を切るように、心の深い岩壁を押しやって一滴流れて来たのではないだろうか?
「おばあちゃん・・いえ、頼子さん・・・」
綾子は老婦人に近づくと男と同じように優しく背に手を置いた。老婦人のガウン越しに痩せて細くなった人間の温かさを感じた。
(私はまだ分からないことがあるけれど・・・この方々が背負っていることに比べればそれは些細な事なのかもしれない)
綾子は老婦人に微笑した。それを男にも向ける。
微笑を受けて男はやや戸惑いながらも、どこか綾子の微笑にほっとした表情をした。その動きが綾子にも分かった。
綾子が老婦人の手を取ると、その手を優しく撫でた。
「お話の続きを伺いたいと思います。でも・・」
「でも?」
老婦人が濡れた目を向けた。
その目に向けてそっと綾子の細い手が伸びて来た。手には白いハンカチが握られている。
「まずはこれで、涙を拭いてください」
老婦人は眼前に伸びるように出された白いハンカチを見て再び目頭を熱くしたようだったが、直ぐに小さく横に首を振るとそのハンカチを静かに受け取った。
それを瞼に当てると、今度は綾子に向かって老婦人が微笑を返した。
「そうね、私が泣いてどうなるものでもない。私たちはあなたを私たちにとって都合の良い事件に巻き込んでしまった。あなただってこんな私たちの犯罪に巻き込まれてしまって愛する家族と離れ離れになっている。泣きたいのは私なんかより、あなたのほうですものね」
綾子はそれには何も言わず黙ったまま震える老婦人の背を優しく摩った。摩りながら姉の面影が浮かんだ。
(姉さん・・心配かけて御免なさい)
自分を見つめる姉の眼差しに綾子は問いかける。
(もしかしたら私が今ここにいるのは家族がいつか向き合わなければならない《芦屋の向日葵》の重大な秘密を知っておかなければならないという何者からの意思なのではないでしょうか?)
問いかけに姉の玲子の表情がまるで意思を伝えるように揺れ動く。揺れ動きながら姉の口元に小さな微笑が浮かんだ。
(姉さん・・?)
まるでその通りだと言わんばかりに玲子が微笑をしている。
(姉さんが微笑している・・)
綾子がそう思った時、口元がゆっくり動いた。
――綾子、あなたはあなたの方法で向日葵の秘密を探るのよ
(姉さん・・?えっ、待って玲子姉さん・・!!)
面影の姉は綾子の問いかけに答えることなく、綾子の心に言葉だけを残して消えて行った。
「綾子さん?」
不意に掛けられた言葉に驚き、綾子は老婦人へ顔を向けた。
(今ほんの一瞬だけど、姉さんと私は話をした・・まるで本当の言葉の様だった)
綾子は首を振った。それから顔をあげて男を見た。
「森さん・・いえ哉さん」
男が綾子を見る。
老婦人の背を綾子が再び摩った。綾子は穏やかに言った。
「新しい紅茶を頂けませんか?もうこれは冷えてしまいました。そう・・頼子さんの分も一緒に」
哉は綾子の言葉に応じるように首を縦に振った。
「それでもう一度、お話を伺いましょう」
綾子の言葉に老婦人と男が深く頷いた。
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