第44話


(青地に黄色の向日葵が咲く)

 そう思えば思うほど、今自分が描いているこの名画芦屋の向日葵にはおかしいほどの興味が湧いてくる。

(これは写実絵画ではないのだ。モネやマネ、ルノワール等とは全く違う。これは現実の向日葵を現実からかけ離れた空想と言う世界で永遠に生き残させるために描いているのだ)

 水野は筆を止めた。

(何の為に)

 筆をキャンバスから離すとポットの油に筆先を浸けた。

 名画を模写していると時にこうした自問するような会話を絵画の前ですることが多くなる。それは名画を描くことで何か自分に不足している部分を補わそうとする化学反応であり一方では深い溢れんばかりの好奇心と興味なのだと自分では理解している。そしてそれは名画であれば、あるほど深くなるが事実だ。

(何の為に ゴッホはこの作品をこうも現実にはない世界に描こうとしたのか)

 パレットの上で筆先に微量の茶色を含ませて向日葵の葉の輪郭線を描いた。その時、水野は何か小さな違和感を受けた。

(ん・・?)

 水野はもう一度、パレットの上に筆を持って行き、先程と同じ個所をなぞった。

 やはり何か違和感を受けた。

(これは・・何だ)

 水野は筆をパレットの上に置いた。そして写真と自分の描いている絵を交互に見た。平衡感覚が狂う、何か妙なものを感じて仕方がなかった。

 互いを見つめ、頭の中で整理しようと水野は努めた。

(何だ、この茶色を僅かだが置いた時、違和感を受けた。葉の輪郭に置かれた青の背景に茶色の輪郭・・そして現実の緑色・・)

 水野は注意深く自分の描いた個所を見た。向日葵の左の青地の背景に茶色を入れた時、おかしいと思ったのだ。

 自分の描いた絵と写真。

 互いに再び見つめる。

 そして思わず、声を出した。

(これは・・)

 水野は写真を手に取ると自分が描いた箇所を見た。

(この箇所は)

 水野は写真を食い入るように見た。そして首を振った。

 葉の輪郭が僅かだが正確な横線になっていた。下へ落ちて行く葉の輪郭が僅か数ミリであったが、ゴッホの絵画にそぐわない横に正確に引かれた僅かな線を水野は見た。なだらかな葉の輪郭に僅かだが直線があって、それを茶色で引いた時、絵の全体のリズムを消したと水野の感覚が違和感としてとらえたのだった。

(何故こんな直線がここに有るのだ。これでは作品がおかしくなる。全体にゴッホ独自の線の中で、ここだけが僅かだけど正確な線になっている)

 水野は、自分の絵で線を僅かにずらした。

(やはり・・)

 こちらの方が全体のまとまりが良くなった。

(不思議だ。これも、ゴッホが仕掛けた何か魔法なのだろうか。そうする何かがこの向日葵の絵と鑑賞者を永遠につなぎとめることができる・・仕掛け・・罠なのか・・)

 そう苦笑して再びパレットの筆を取ろうとし時、何かが頭の中を閃光の様に過ぎた。

「いや、違う!!」

 そういうや、水野は写真を手に取り隣の部屋に行き机の上に置かれたペン立てで何かを探し出した。急くように動く水野の目にそれが写ると手に取り、そして写真を机の上に置いてそれを直線に当てた。

「これは・・」

 水野はその直線に手にしたものを当てた。それは小さな三十センチメートルの定規だった。水野は定規を回して発見した直線から目を次々と移していく。

 そして何度も確かめる様に目を移して、水野は呻いた。

(鳥は良い目をしている。何故なら空からでも海を泳ぐ小さな鰯の群れを見つけることができるからだ・・しかし画家も)

 水野は唾を飲み込んだ。

(良い目を持てば、名画の中の小さな欠点を探し出し、秘密を知ることができるものだ) 

 水野はそれを思いながらある人物のことを心に浮かべた。 

 その人物は乾玲子に他ならなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る