第28話
翌日東京へ向かった頼子を見送った護は一週間後、頼子から手紙を受け取った。
手紙には兄の容態について書かれていた。
どうやら肝臓にできた腫瘍が悪性で思いの外悪く、また病気の薬が非常に入手困難な状況であるが薬の入手次第では回復できないことは無いということ、そして暫く兄の看病の為に東京へ残ると書かれていた。
急なことではあったが東京での暮らし全般は新島と兄と満州で同期生だった田川という若者が見てくれることになったので心配をしないでほしいと書かれていた。女性の生活ではあるが田川という人物が既に結婚して妻がおり、自分は田川夫婦の住まいを間借りして生活することになったと最後に結んであった。
護は頼子の細い流れるような文字を見て最後に連絡先が書かれてあるのを見た。
「東京・・新宿か・・」
呟くように護は言った。
(暫く、会えないようだ)
護は手紙を封筒に戻しながら思った。
(僕もこれから自立する道を選ぶのだ。暫く忙しくなる。兄の事は心配だが頼子さんに任せよう。少しの時間がお互いの問題を解決してくれると思い、良い方向へ向かうと信じよう)
護はそれで手紙を机の上に置いた。
実は頼子が去った後、護は向日葵の絵の模写を始めた。
今手元に残る絵具は少ないが既に全体の構図は写し取れていた。
(新しい始まりの時こそ、この絵の模写を始めるのがいい時期だと思う。お互い離れ離れだが再び会う時、この絵の完成を二人で祝えればそれは素晴らしいことだろう。それに・・)
護はぐっと顎を引いた。
(新島さんも何か始めているようだ)
手紙には新島の事も書かれていた。
新島はどうやらGHQに出入りをしているようだった。そして田川と言う青年を秘書の様に付き添わせて、それは何か若い官僚の様に見えると頼子は書いていた。
(僕も新島さんに言った。戦後の焼け野原に沢山の芸術を蘇らせると・・)
護は肩に手拭いを乗せると足早に屋敷の玄関へと向かった。
これから夜の漁に出るのだった。
(自分はこの道で進むのだ。そしていつか新島さんと再び会うことを楽しみにしている)
東京の武蔵野にある病室で先程頼子は田川夫妻が出て行くの見送ったばかりだった。
兄の病室には今、新島が見舞いに来ていた。
兄から暫く席を外すようにと言われた。
それで時間を作ろうとしたが日傘を忘れたと田川の妻が戻ってきたので兄には悪いが病室に入ろうと扉に手をかけたところだった。
その時部屋の中から兄の大きな声がした。
「新島さん、そんなことしてはいけない!」
頼子はその声に驚いて手を扉の取っ手から離した。
「あの場所で何をしていたか?新島さん、あなたならご存じでしょう?その時の情報を彼らに渡すなんて・・それも人々の為ではなく、軍事に利用するなんてとても恐ろしいことです」
(どうしたと言うのだろう)
頼子は鼓動が早くなる心臓を押さえながら、恐る恐る扉に耳を寄せた。
「広島と長崎の事は分かるでしょう?あんな非人道的なものを造り出し、それを平然と戦争に使用する、人間の尊厳と言うものを越えて兵器として扱う連中に、何故、僕達のやっていた研究のすべてを渡さなくてはならないのです」
(研究・・?)
頼子は心の中で反芻した。
確かに兄は満州で陸軍のある研究所員だった。
内地の戻っても新島とどこかで陸軍の為に何かの研究を続けていたことが頼子には今の兄の会話で分かった。
それが何かは知らないが、内容が漏らせないようなものだと兄の怒声に満ちた言葉で頼子は感じた。
「森君」
新島の声がした。
「君、新しい時代に生きていたくないのかね?」
哉は細くなった指を見ながら言った。
「新島さん、そりゃ僕だって生きたいです。妹の頼子を残してこのまま死ぬなんてまっぴら御免です。しかしですよ。あれは都市部に細菌として撒き散らしたらスペイン風邪なんてものじゃない。何万と言う人が死んでしまうと言う恐ろしいウイルスの開発です。いくら・・」
そこで哉は力なく言った。
「僕の病気の為の薬を手に入れるためだとはいえ・・その取引は・・危険すぎる」
(兄の為の・・薬・・)
頼子は少し顔を上げた。
(どういうことだろう)
注意深く言葉を漏らさず聞こうとした。
「森君、君がかかっている肝臓の病気に対抗する薬は今この国では製造できないものだ。米国では既に臨床実験されて結果が出ている。それを今君に投薬しなければ、恐らく次は肝硬変を起こし、次に・・いやもしかしたら既に癌になっているかもしれない。先程君の担当医にも聞いたが、もしそうなれば君は若い分だけ早く転移が始まり・・やがて」
新島が言葉を一度切ったが、断定的に言った。
「死に至る」
(兄が死ぬ・・・!)
頼子はそれで動揺したのか、思わず扉に体が触れた。それで部屋に音がした。
扉の方を二人が見た。
頼子はそれで慌てて扉から離れた。
「誰か、そこに居るのか?」
兄の声が聞こえた。
頼子は少しよろめきながらゆっくりと扉から離れた。
「頼子か?」
自分がいることを確かめるような声がしたが、頼子は音を立てないように扉を離れ、廊下を走り出した。
(兄が・そんな重い病気だとは)
頬から涙が伝うのが分かった。
部屋では新島と哉が廊下を走る音が響くを黙って聞いていた。
新島が言った。
「妹さんが聞いていたようだな」
哉が重く沈黙していた。
「森君、それでどうする。私はこれからGHQの連中と会うことになっている。彼らの中にアメリカの製薬会社と繋がりある将校が居る。その人物が研究の資料を欲しがっているのだ。そいつと君の為の薬を取引する」
黙ったままの哉に続けて新島が言う。
「君は誤解しているかもしれないが、君の為に使用した薬はやがて日本国民全員が使用することができる。まぁそれでもこの国の医療制度とやらでは十年先になるかもしれんが・・それを先に君の為に使用すると言うことなのた。いわば君は日本での非公式の一番目と言うことだ。結局いつかはその薬が安全だと誰かが証明しなければならない」
哉の心の中には先ほど廊下を走ってゆく妹の足音が心の中に響いていた。
(確かに・・)
哉が心の中で頷く。
「多くの人を殺害する恐れのある我々が開発したウイルスの資料を渡す代わりに、何年後かの多くの国民が助かる可能性のある薬をてに入れるのだ。森君、これはそうした取引だ」
新島がベッドの側に椅子を引き寄せた。
「それに」
哉が新島の相貌を見た。
澄んだ瞳をしていた。
「君も知っているだろう。アレは逆を返せば多くの人を助けるためのワクチンになる可能性があるという我々の秘密を」
哉は黙って頷いた。
そしてか細い指で棚を指した。
「あそこか?」
新島の言葉に頷く。
新島は立ち上がり、棚を開けた。そこに封筒に入った資料が在った。
「君があの研究所を去る時どさくさにまぎれて持ち出した資料がこれだな」
新島がそれを手に取ると哉を見た。
「今夜、例の将校に見せよう。そして君の為の新薬を手に入れる様に手配しよう」
哉は黙ったままだった。
「念のために聞くが、写しは取っていないな?」
無言で頷く。
「忙しくて写しを取る時間がありませんでしたよ」
「結構だ。それはしない方が君の為だ」
新島が資料をバッグに入れて哉を見た。
「それと、妹さんの事だが」
哉が顔を上げた。
「自分の妻として貰いたい。薬を手に入れるのは将校と私の取引だ。その薬を君に渡すのとは別の取引だ。どうだ?君にこれほどの薬の大金を払うことは出来まい」
驚いた哉が言葉を出そうとした。
「別に君をだまそうとした訳ではない。初めて君の妹を見た時からそう思っていたのだ。賢い女を得ることは男子として大事なことだ」
新島が立ち上がった。
「森君、すまないと思うがこれが政治と言うものだ。まぁ君の悪いようにしないから、妹さんのこと考えてくれ」
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