第16話

 綾子は静かにカップを置いた。

 そして目を閉じると向日葵の絵に手を触れながら言った。

「それで話は全部ですか」綾子は護に言った。

「護さん?あなたは私に言いました。あそこの床に置いている《イレーヌ嬢》は弟の作品で、弟は模写を専門にした画家だと」

 護は「そうです」と言った。

「でも今聞いている話だと、あなたは先程から『弟』を護と言っている。おかしいではありませんか?あなたが護さんであれば、あなたが弟の名前であるはずがないのでは?」

 護が深く頷く。

「そうです。あなたの言う通りです」

 その時、ドアが開く音がした。

 綾子と護はその音の方を振り返った。

 そこに老婦人が立っていた。

「頼子おばあちゃん・・」

 綾子は腰を掛けていたソファから起き上がりドアに立つ老婦人の側へ走り寄った。

 護は目を細めて老婦人を見た。

 綾子が老婦人の手を取った。

 老婦人は綾子の顔を見ると微笑した。

 それを見て綾子はいつもの老婦人ではないと思った。目には生気が宿り、顔は呆けてはなく知性が漂い、黒い瞳の奥には若い青春の頃のような輝きが見えた。

「綾子さん」

 老婦人は言った。

「あなたにご面倒をかけて申し訳ありません」

 頼子は頭を下げた。

「私、あなたを病人のふりしてだましていたの。勿論足腰は弱っているので車椅子は必要だけど、それでもずっと必要と言うわけではありませんのよ」

 そしてゆっくりとソファの方へと歩き出した。その頼子の手を優しく握りながら綾子も一緒に歩いてゆく。

 頼子はソファまで来るとゆっくりと腰を下ろした。

 綾子も無言で腰を下ろす。

「兄さん」

 その声に護は頼子を見て頷いた。

 そして頼子は綾子を見た。

「綾子さん、もう何も言うことはありませんね?そうです。横に居るのは私の兄の森哉です。そして私は・・」

 そう言って婦人は深く息を吸うと思いを吐き出すように綾子に言った。

「私は旧姓、森頼子。そして今の名前は新島頼子。そう、私は新島新平の妻です」

 綾子の息をのむ音がした。

「そしてここからは私がお話をしましょう」

 頼子はちらりと投げ出されたように置かれた新聞を見た。

「そして彼女のことも」

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