第15話

 「全て灰になったな」

 新島の声が護に聞こえた。

 空襲の翌朝まだ火も消えぬ家の側で護は新島の言葉の意味を推し量る様に辺りを見た。

 少し離れたところにある山本邸はほぼ形をとどめることもなく破壊されている。

(あれではきっとゴッホの向日葵は・・無事じゃないだろう)

 護はそう思いながら焦げた匂いが運ぶ風の流れる方を見た。

 建物の瓦礫の下で横たわる死体や泣き崩れる人々の声が風に乗って聞こえる。

(何と言う・・世界だ)

 戻る途中に見た川には投げ出された子供の死体や息も絶え絶えになって横たわる多くの人々の姿が見えた。

(どこに人が住める世界があると言うのだろう)

 護はそう思うととめどもなく涙が溢れた。

 その護の姿を見て、頼子も下を見てすすり泣いた。

 憲介も哉も、そこに居るすべての人の顔も衣服も灰で汚れ、焼け野原に変わり果てた世界で祈りの言葉すら忘れて呆然自失していた。 

(そうだ、僕の向日葵の絵は・・)

 護はゆっくりと土蔵の在った場所に歩き出した。

 土塀は破壊され白壁は焼き焦がれていた。

 重なり合うように崩れ落ちている壁の隙間から熱風が流れてくる。

(ああ・・、鍋井先生からの頂いた大事な向日葵の絵が)

 護はその場に跪いた。

 そして両手を握りしめて肩を震わせて泣き出した。

(灰になってしまった)

 崩れ落ちた壁を踏む音が聞こえた。

「泣くのはやめろ」

 新島だった。

 護はその声に震える背で答えた。

「多くの罪もない人々が亡くなったのだ。それを受け止めてこれからの事を考えろ」

「分かっています。それでも悔しいものは悔しいのです。僕にとって・・・いや大げさかもしれないですが人類にとって大事な芸術が破壊されたのですから」

「では君が再生すればいい」

 その声に護は振り返った。

「君には悪いが土蔵で見たあの絵を俺はゴッホだとは思ってはいない。本物は御当主が山本家に運んだあの黄色い包装の木箱だと思っている。あの時は御当主の顔を立てたまでだ」

 護は自信に満ちて話す新島の顔を見た。新島の帽子の下で目が輝いていた。

「破壊の後には再生がやってくる。多くのもは破壊されたがその折り重なれた破壊の壁の下に眠る小さな希望があるだろう。破棄されれば希望をよりどころにそうした破片を繋ぎ合わせて再生すればいい」

 新島が少し空に目を遣った。

 強い夏の日差しが差し込んできた。

「君は画家になりたいのだろう。じゃこの現実を見て自分がどのような画家になりたいのか考えればいい。それがこの崩れた土蔵の下で灰になった向日葵の絵を描いた画家へのせめてもの感謝だろう」

 護は握りしめた拳で涙を拭った。

「新島さん、あなたは昨晩僕に新しい時代に生きることを考えることは大事なことだと言いました」

 護は立ち上がった。新島を振り返るその瞳は赤かったが涙は見えなかった。

「僕はもう一度この焼け野原の後の世界に生きる人々の為に、ゴッホの向日葵を蘇らせます。いやそれだけじゃない。灰になった多くの絵画を再び蘇らせるような画家になります。そしていつか人々に多くの希望を与えることができる美術館を造ります」

 新島は帽子の鍔を押さえながら護を見たがそれには何も答えなかった。

「新島さん」

「何だ?」

「もし僕の言う通りになったら見ていただけますか?僕の再生した絵を」

 新島は帽子を深く被り無言で頷いた。

「それまで生きているのだな。これから俺は君の兄とある場所へ向かう。今度会うときは恐らくこの愚かしい戦争が終わった後の世界だろう」

 新島は荷物を背負い直すと護の側を離れた。

 そして新島が哉と話をすると、哉が側に寄ってきた。

「護、これから新島さんとここを離れるよ」

 そう言うとすまなさそうに護の顔を見た。

 護が兄の顔を見て言う。

「兄さん大丈夫です。僕はここで乾のお父さんを助けて行きます」

「そうだなこの焼け野原だ。乾さんも大変だろう。そう、それに先程頼子の事もお願いさせてもらった。こんな時になんだったのだが・・」

 護が兄の顔を見て微笑んだ。

「頼子さんの事も心配しないでください。それより兄さんもどうかご無事で」

 そして兄弟は強く抱き合った。

 それを見て新島が歩き出した。

 それに合わせる様にゆっくりと哉は護から身体を話すと新島のもとに歩いて行った。

 二人が去った後を風が流れて行った。

 頼子が一人佇む護の側にやって来た。

「頼子さん」そう言って護は優しく背を抱いた。

「何とか乾のお父さんを二人で助けて生きていきましょう」

 護が頼子に言った。

(新島さん、僕は向日葵の絵を蘇らせますよ。きっと必ず何年かかってでも)遠くで自分を呼ぶ憲介の声が聞こえた。

 丁度その声に振り返った時、土蔵の瓦礫が崩れ落ちた。

「危ない!」

 そう言って二人は瓦礫を避ける様に飛び出した。 しかし頼子の足がもつれ身体を抱き合わせるかのように地面の上に倒れた。

 崩れた瓦礫は二人の身体の届かないところで止まった。

 護は間近にせまる頼子の瞳を見た。近寄りあう二人の身体から汗や焦げた煤の匂いがした。

 護は身体が熱くなるのを感じた。

(いけない)

 慌てて頼子から離れた。

 頼子も頬を染めている。

「大丈夫か」

 憲介が心配して二人の方に近寄って来た。

「大丈夫です。お父さん、そこの瓦礫が崩れたみたいで」

 そして護はその崩れ落ちた場所を指さした。

 するとそこに何か大きな木箱が見えた。

 護はそれを見て急いで立ち上がった。

 そしてその場に急いで走り出した。

 その様子を見て憲介と頼子が護の後に続く。

「どうした、護君」

 護は瓦礫の下から見える木箱を指さして憲介と頼子に言った。

「お父さん、頼子さん、無事です。僕の向日葵の絵がここにあります」

 瓦礫の下で眠る希望のかけらを見て護は喜びの声を上げた。

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