第14話

 綾子の耳に芝を叩きつける雨音が聞こえた。

 止んでいた雨が少し降り出しようだった。

 窓を見るといつの間にか月明かりが見え、月光に照らし出されて銀色の幾条もの筋が見えた。

「その時、私は弟と頼子の手を握り、一目散に北へ向かいました。六甲山の麓へと爆撃と飛び交う火炎、人々の叫ぶ阿鼻叫喚の世界を抜けて一目散にかけて行きました。それは長い、長い時間でした」

 護は続けて言った。

「私達は走り続け、やがて火が届かないところで街を振り返りました。そこから見た芦屋の街は神戸まで広がる赤く燃え盛る炎で照らし出され、まるで灼熱地獄を見ているようでした」

 眉間に手を寄せて顔を覆うようにして護は下を向いた。

 綾子は護が震えているのが分かった。

「震えているのですか」

 綾子の声に護は頷いた。

「ええ、私はそこに向かうまで多くのものを見たのです。焼け焦げた子供を抱えて叫ぶ母親、首を失った年老いた父親を背中に紐で背負って逃げまどう若者・・」

 護はそこで言葉を切った。

 嗚咽が漏れていた。

 綾子は護の姿に自分が体験していない戦争を見た。多くの事を見て言葉では語りつくせぬ深い懊悩が護から言葉を奪っているのだと綾子は思った。

「芦屋は一面赤い炎が揺れていました。熱風が時折潮風に乗って私達の頬を撫でて行きました。幸いあなたの御祖父も、弟も妹もそして彼も無事でした・・」

 落ち着いたのか護はゆっくりと顔を上げた。

「全ては灰になったのです。芦屋の街も、そこに生きる人々の希望も夢も将来も・・そうそしてゴッホの描いた《芦屋の向日葵》も・・」

 護が綾子の側に寄り沿う絵を見ながら言った。

「逃げまどう中、弟は山本邸が大きな炎に包まれたのを見たと私に言いました。それだけでなく空襲後にあなたの御祖父が山本氏を見舞った時、山本氏からそう聞いたと弟が言っています」

 少し寂しげな瞳で綾子を見上げた。

 護は寂しそうに微笑んだ。

「人類の遺産ともいうべきゴッホが描いた向日葵はその日、歴史の中で消えたのです」



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