第11話

 土蔵の鍵を開けると護は電気を点けた。オレンジの明りがイーゼルや椅子などを照らす。

 天井に小さな小窓があり、そこから夜の空が見えた。

 護は後ろを振り返ると三人の顔を見た。

 兄の護と頼子、そして新島の顔が電気の明りに浮かんだ。

 護は一人奥に入ると明りの届かない影のところから青色の包みを持って来るとそれを丁寧にイーゼルの前の床に置いた。

 すると三人が土蔵の中に入り、全員がイーゼルを囲んで立った。

 護はそれぞれ三人の顔を見渡した後、ゆっくりと青色の包みを取った。そして紙をゆっくりと広げられると中から大きな木枠が見えた。

 護はその木枠のふたを取った。ふたを取ると中から太い少しベニア材の額縁に囲まれた一枚の絵を静かにイーゼルの上に置いた。

 オレンジの灯りの中で大きな向日葵の絵が誰にも見えた。

「ほう・・」

 新島が感嘆したのか小さな声を出した。

「これがゴッホか」

 続いて護が言い、頼子が深く頷いた。

 護はそんな三人を見渡した後「そうです。これがゴッホです」と言った。

 ロイヤル・ブルーに輝くクローム・イエローが鮮やかな向日葵がオレンジの明りの下でもはっきりと見えた。

 皆の頭上を沈黙の時間が流れた。 

 何処から来たのかオレンジの灯りに蛾が寄って来て灯りに当たった。

 護は沈黙の中、父が出かける前に自分に密かに言ったことを心の中で思いだしていた。

 それはこの青い包みの絵は原画では無い、原画をもとにある画家が描いゴッホの模写だと言うことだった。

 護はそのことは皆には黙っていた。この絵を誰が描いたかは知らない。本物は養父が山本邸に届けている。

 本物ではないことを思えば護は心が痛んだ。そして本当の事を言えばこの絵を見せることは養父から許可を得ているわけではない。

 自分の独断で皆に見せている。

 何故だかは護にも分からない。ただここに原画では無くても素晴らしい芸術があると言うことを皆に伝えたかっただけなのかもしれない。

 土蔵に仕舞った後、一人で木箱を開けてこの絵を見た。

 その時、それは初めてゴッホの向日葵を研究所で見た時以上の感動があった。

 模写とはいえまるで本物を越えるような輝きを見たからだ。

 だからこれほどの感動をうける作品であれば皆にゴッホの本物だと言って見せても、誰も疑うことは無いだろうと思った。

(これはゴッホの向日葵に匹敵する・・いや、もしかしたらそれ以上のひとつの素晴らしい芸術作品だ)

 護の心の上を蛾の羽ばたく音が響く。

(この向日葵は模写だと鍋井先生からお父さんが聞いた。原画は今日山本さんのところに返さなければならない、だから僕の絵の練習の為に鍋井先生が青い包みに入ったこの絵を僕に渡してくれた。この絵は若い才能のある方に持っていていただきたいという鍋井先生の希望だと言うことだった)

 護は向日葵の絵を見た。オレンジの灯りがゴツゴツと浮き上がった絵具の影を照らしてゆく。

 そんな影を見ながら思った。

(しかし、模写とはいえどうしてこれほどまでに素晴らしい作品になるのだろう。僕は研究所で原画を見ていたけれど、これはそれにも負けないくらいの素晴らしい作品で、描いた画家の才能が溢れてもうすでに一つの作品としての力が備わって居る)

 蛾が明りに再び当たった。

 それで皆の影が揺らいだ。

 皆が真剣に向日葵の絵を見ていた。

 無言の中、土蔵の外から潮風を含んだ夜風が流れて来た。

(誰が描いたかなんてどうでもいい。模写でもこれほどの感動があるのだから、僕もいつか沢山の模写を描いてそれで埋め尽くした美術館を建てることができればどれほどのものか・・・)

 そう思った時、新島が言った。

「これは本物か?」

 護は新島を見た。

 目深く被った帽子の影から細くなった視線が向日葵を見ている。

「どうしてですか?」

 新島に詰め寄る様に護が言った。

「先程、御当主が車に持ち込まれた黄色の包装の物、あれはこれと寸分変わらぬ大きさだった。そちらが本物で君は僕達に違うものを見せているのではないかい?」

 新島が向日葵の方に歩み寄った。

 そして青色の下地に目を寄せた。

「ゴッホは確か筆跡が厚く、絵具もパレットから直接キャンバスに乗せていたと私は人づてて聞いている。そして絵具の表面がゴツゴツしていると聞いている。そうであれば画面全体に同じようなマチエールがあると思うが・・」

 新島はそこで振り返るとある部分を指さして護を見た。

「見給え、これは一部その表面が何か蝋の様に光っている。この部分は油彩の溶き油や仕上げ材によるものではないな」

 護は驚いて新島を見た。

「まさか」

 思わず声が出て向日葵の絵の側に寄った。

 その部分を覗くと確かにその部分が蝋の成分で光っており、油絵の具で塗られたようには見えなかった。

 哉と頼子が心配そうに護を見ていた。

「君、これは偽物だな?」

 断定的に新島が言った時、後ろから声がした。

「それは本物だよ」

 皆がその声に振り返った。

 振り返ると土蔵の入り口にいつ戻ったのか憲介が立っていた。

 そしてゆっくりとした足取りで皆のところにやって来た。

「新島君、君は美術に詳しいようだね。まぁ私は君ほど博識ではないがね。それでも本物かどうかは分かる」

「少し失礼な言いようですが、御当主、それは何故です?」

 新島の視線を見ると、憲介はゆっくりと笑い出した。

「いや、君の指摘は実に鋭い。必ず正確な答えを求めようとする方のようですね。では言いましょう。それはゴッホの絵をお持ちである方から僕が直接聞いたからですよ」

 新島が視線を変えることなく憲介を見ている。

「本物であるかどうかは、お持ちになっているご本人に聞くのが一番ですよ。例え絵についての知識があろうがなかろうがそれですべてが分かる」

 憲介が護の側に立って皆の視線を確かめながら言った。

「今しがた私は山本さんのところに出向いて私が預かっている絵についてあれは何の絵ですか?と聞いたのです。そしたらご本人がゴッホの絵だとおっしゃった。ご本人がそう言う以上それ以上の答えは無い。それは宜しいですな、新島君」

 新島は黙って聞いている。憲介は続けた。

「それで私がそんな大事な絵をお預かりしていいのですか?と聞くと山本さんの邸宅ではいつも向日葵の絵を居間のところにはめ込んで飾るのだが、暫くその絵を飾るための専門の職人が来ないと言うことだった。それで山本さんは先程鍋井先生に電話で申し訳ないが乾家の方で暫く預かってくれないかとお願いしたところだと言われたそうだ」

 口髭を触りながら穏やかに憲介が笑う。

「実際先程その鍋井先生から私宛に電話がありましたよ」

 新島が目を細くして言った。

「では聞きますが、あれと寸分変わらずの大きさのものを先程持っていかれたようでしたが?」

「新島さん」

 新島をたしなめる様に哉が言った。

 憲介は軽く手を上げて哉にまぁまぁと言いながら新島を見て言った。

「確かにそうです。ただあの包みは絵ではない」

「絵ではない?」

「そう、あれは今晩初めて山本さんに会うので私が手土産に用意したものです」

「中身は?」さすがに言い過ぎだろうと哉が何か言おうとした。

「中身は酒です。灘の酒ですよ。一升瓶に入れた酒を木枠で入れていたものです」

 そこで憲介は一呼吸おいて言った。

「新島君、君は大きさが同じだと言いますが・・」

 憲介の少し目が鋭くなった。

「実際に二つ並べて寸法を測られたわけではないでしょう?」

 護は父が明らかに嘘を言っていると分かっている。まるで息子の非難を弁護してくれているようだった。

 心が温まるのが分かった。本来ならば無断で絵を見せた軽率さを責められてもおかしくは無かった。

 帽子の鍔で目を隠して新島は言った。

「確かに、御当主の言う通りです」

 新島は護の方を見た。

「疑って悪かった。この絵は正真正銘、本物のゴッホだ」

 そう言うと軽く頭を下げて土蔵を出た。

 それを見て憲介が言った。

「妻は丹波の方に疎開して不在ですが、ささやかではありますが料理もあります。さぁ今晩だけは戦時中ですが楽しく過ごしましょう」

 そう言って皆を促した。

「護君も土蔵に鍵を掛けたら、居間のほうに来て食事をしよう」

 憲介は微笑をたたえながら護達を促して土蔵の外に出た。

「お父さん・・」

 憲介が振り返った。

「すいません・・軽率でした・・」

 それに憲介は軽い笑顔で答えると足早にその場を去って行った。

 ひとり土蔵に残った護は向日葵の絵を見た。

 ロイヤル・ブルーが新島の言う通り少し蝋の様に艶めいているのが見えた。

(あの方は目が良い。それに絵画についての見識が深い・・)

 蛾が再び明りに当たり護の影が揺らいだ。

(新島新平・・、どこか得体のしれない人物だ)

 揺らぐ影の中で呟いた言葉をかき消すように、護は土蔵の鍵を閉めた。

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