第10話
夕暮れに鳴く蝉の声を聞きながら哉は縁側に腰を下ろしていた。憲介は護達を自邸に招き入れると直ぐにどこかへ出かけた。
憲介の乗る車には黄色の包みが積み込まれていた。
青い包みは護の指示で土蔵の奥に運び込まれた。哉が護に聞くとその土蔵は護のアトリエになっているとのことだった。
それも憲介が護の事を思ってしてくれたことだった。
(護は乾家で大事に扱われている。御当主の憲介さんは誠実なお方だ。両親を亡くした護を例え義理とはいえ、このように礼遇してくれている。これからも護をお任せしても問題はないだろう)
哉は入浴を終え、庭の木を見ながらどこで蝉が鳴いているか首を動かして探していた。
部屋の奥では新島が柱にもたれながら読書をしている。相変わらず帽子を目深く被っている。彼も先程風呂に入り長旅の疲れを取ったばかりだった。
今は頼子が入浴している。いつもより長くなっているのはやはり女だなと哉は思った。
長旅の汚れを取っているのだろう。男の様に風呂桶で水を浴びれば良いと言うものではない。
蝉を探すのを止めて足を組んで顎に手をやった。空の向こうに夕暮れが染まっている。
(頼子も護も大人になった)
そう思って、ふと哉は護が頼子を見る目が少し少年の頃とは違うなと感じた。
久しぶりに見た弟は少しばかり少年の面影を残してはいるが青年の若々しいなんとも言えぬ匂いを出していた。
(護も今年で17歳だ。恋の一つをしてもおかしくはない)
そう思うと、今日の護は頼子と久々に会ったがどこかよそよそしい。
(頼子に恋心でも抱いたか?)
くすっと心で笑った。
(別に血のつながったもの同志ではない)
物思いに耽っていた為か蝉が鳴き止んでいたのを忘れていた。
「蝉を探していたのではないのか?」
突然、新島の声が聞こえた。
いつ来たのか新島が縁側に立って哉を見下して言った。
「次の朝、生きて蝉を鳴く声が聞ければいいが」
新島は遠くに沈む夕陽を見詰めている。
「そうですね、新聞は書いていませんが各地での戦局はかなり厳しいようですね。本土空襲もひどくなっている。東京はもうほぼ焼け野原になっているでしょうね」
哉は静かになった庭に下駄を履いて出た。同じように新島が後に続く。哉も新島も誰にも声が届かないところを探して腰を下ろした。
「新島さん、どこへ行くのです」哉が言った。
「朽木へ向かう」
「朽木?」思いつかない地名に哉が眉をしかめた。
新島は帽子を取ると鍔襟のところから一枚の紙を取り出した。
哉はそれを広げた。
電報のようだった。それを広げると短く書かれた一文を読んだ。
確かに「クチキへユケ」と書かれている。
「どこなのですここは?」哉が聞いた。
「琵琶湖のほとりから山一つ中に入った場所だ」
「琵琶湖?」
「そうだ、戦国時代に織田信長が朝倉征伐の途中、浅井長政の裏切りに遭って京へ戻る時、立ち寄った場所がある。それが山間の谷の集落で朽木だ。一度その集落に研究員を集めて、そして敦賀から次の場所へ向かうそうだ。人目を避けるためかもな。そうした山深い里へ研究所員を連れて行くのだから」
帽子の鍔に手をやりながら新島が言葉を足した。
「東京は空襲が酷い。そして船で何処かに連れて行き、まだ例の続きをしたいのだろう」
哉は吐き捨てるように話す新島を見た。
「新島さん、絵画だけでなく歴史にも詳しいですね」
ふんと新島は鼻を鳴らした。
「森君、戦争には負ける。それが俺には分かる。だから俺はその次の時代に生きるための準備をする」
「準備?」
ああ、と言った。
「それは?」
哉の言葉に新島は静かに押し黙った。
その両肩に夜の暗闇が迫ってきていた。その闇の向こうから小さな音がした。
新島と哉がその音の方を振り返った。
「護・・」
そこに護が立っていた。新島と哉の顔が暗闇の中で緊張しているのが護には分かった。
「すいません、兄さん。驚かすつもりは無かったのです。頼子さんがお風呂から上がられたので呼びに来たのです」
「僕達を呼びに?」
哉が不思議な顔つきで護に言った。
新島は帽子を被った。自分の表情を悟られぬようにまた目深く被った。
「ええ、先程乾のお父さんに土蔵に運んだあの絵を・・皆さんに見せていいか聞いたのです」
新島がちらりと護を見た。その視線に護は下を向いた。
「そしたら見たことを秘密にしてくれれば・・とおっしゃってくれたのです。或るお方からお預かりした大事な絵だが兄さんも新島さんも軍人ですからいつ戦争で災厄に巻き込まれぬとも限らない・・と言うことでした」
「見せてくれるのか」
新島が下を向く護に言った。
顔を上げながら護は言った。
「秘密を守れますか?」
挑戦的な言葉だった。
「無論だ」
新島は頷いた。
新島の返事が護の心に届くのを待って、護は言った。
「兄さん、新島さん、ではこちらです」
二人は訪れ始めた夜の帳の中で自分達の見えない影を静かに踏むと護の後について歩き出した。
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